辻村太郎
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辻村太郎(つじむら たろう、1890年6月12日 - 1983年7月15日)は日本の地理学者、地質学者。専門は地形学。
地形学を中心とした日本における地理学の確立につとめ、長く日本の地理学をリードしてきた人物として知られ、日本の地理学の歴史には欠かせない人物である。
[編集] 経歴
神奈川県小田原市の生まれ。1912年に東京帝国大学理科大学の地質学科に入り、小藤文次郎や山崎直方の指導を受け、地形学を学ぶ。同大学院を修了後、1918年に東京高等師範学校の講師、1920年には同教授。1920年からは東京帝国大学でも教鞭をとるようになり、1923年には東京帝国大学の地理学の助教授となった。1925年には師の山崎直方と共に日本地理学会を創設。1930年には師の山崎が死去したのを受けて、事実上地理学教室の主任となった。1944年に教授に昇格。1951年に定年退官。定年後は、日本大学にて教鞭をとった。1983年に93歳にて死去。1939年から1952年まで日本地理学会の副会長・会長を務めた。
氷河地形や断層、山岳地形や古地形の復元など地形学全般に業績が多い。また、語学にも長けており、欧米の最新の地理学の動向にも卓越しており、それらの成果を日本の地理学会へ反映させる事に努めていた。1920年代にアメリカの地形学者・ウィリアム・モーリス・デーヴィス(en:William Morris Davis)が「地形輪廻説」を唱えると、それを取り入れて、それを踏まえて日本で初の地形学の教科書『地形学』を1923年に出版した。その後も、地形学関連の出版を続け当時の地理学・地学関係に大きな影響を与えた。また1930年代には景観地理学の重要性を唱え、景観(独:Landschaft)という概念を人文地理学に組み込もうとし、賛否を含め当時の日本の地理学に大きな波紋を呼び起こした。門下生も多く、各地の地理学教室にも影響を与えた。