貴ノ花利彰
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貴ノ花利彰(たかのはな としあき、1950年(昭和25年)2月19日 - 2005年(平成17年)5月30日)は、青森県弘前市出身で二子山部屋所属の元大相撲力士。本名は花田満(はなだ みつる)。最高位は大関。その細身で均整のとれた体格と甘いマスク、名横綱の弟という血筋のよさから、角界のプリンスと呼ばれた。
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[編集] 来歴
[編集] 入門から大関昇進まで
1950年(昭和25年)2月19日、北海道室蘭市に生まれる。初代若乃花幹士と若緑陸奥之丞(三段目)の弟。元横綱・3代目若乃花でタレントの花田勝と一代年寄貴乃花光司の父。母は武ノ里武三の又従姉。夫人は元女優でタレントの藤田憲子(2001年(平成13年)離婚)。
杉並区立東田中学校在学中に水泳で名を上げ、オリンピック選手の候補になるほどだった。しかし兄である二子山部屋(初代若乃花)への入門を希望、二子山親方は弟である陸奥之丞が失敗するのを目の当たりにしていたため当然断固として猛反対した。結局母が説得してくれたので、「いいか、今日からは父(22歳離れた兄である勝治は父が若くして亡くなった後は父の代わりのような存在だった)とも兄とも思うな、敵だと思え」と兄弟の縁を切ることを条件に入門を許可した。この時残したとされる、後に巷間に名言として伝わった「水泳じゃメシは食えない」の発言については、師弟揃って否定している。1965年(昭和40年)5月本名のままで初土俵。それまでの兄から師匠へと立場の変わった二子山親方は徹底的に厳しく指導をした。また、親方の弟という存在に対して兄弟子たちから限度を超えたしごきを受けたとも伝わる。
当時まだ大学生だった輪島が二子山部屋に稽古に来た際、十両時代の貴ノ花が相手をしたことがあった。年齢は輪島の方が若干上なのだが、さすがにプロの十両力士の方が強いだろうという周囲の予想に反し、貴ノ花は学生の輪島に負けてしまった。これに怒った師匠が「おい!黒いまわし(稽古まわし、幕下以下は黒で十両以上は白)持って来い!」(おまえに十両の資格はない!)と言ったというエピソードがある。「弟だから甘くしている」と言われないため、二子山親方は貴ノ花にわざと厳しく接していたと言われている。
1965年(昭和40年)7月序ノ口優勝、1968年(昭和43年)3月新十両、11月には新入幕を果たした。新入幕当時二日酔いで稽古を休もうとしたところを見つかったことがあった。これを見て激怒した師匠は竹ぼうきを使って叩き起こし(布団が真っ赤になるまで叩きつけたという)、稽古場に連れて行った。その後一度十両に下がるが1970年(昭和45年)1月貴ノ花と改めて再入幕、10勝5敗で敢闘賞を獲得した。その後、横綱・大鵬との対戦で足を負傷するが後にその大鵬を引導を渡す黒星をつけて名を上げる。その後も、大関・清国に足を取られながら逆転勝ち、「かばい手」「つき手」論争を巻き起こした横綱・北の富士戦など、驚異的な足腰の強さを発揮、角界一の人気を不動のものとした。
1972年1月場所の北の富士戦は、立ち合いから攻めに攻めた北の富士が土俵中央で外掛けを強襲、しかし貴ノ花が残したため北の富士がもう一本の足も外掛けにして両外掛けの体勢。掛けもたれる北の富士を貴ノ花がわずかに左へ振ったかとおもうと、北の富士が右手を土俵に突いた。これが「かばい手」か「つき手」かで大物言いとなる。結果審判団はかばい手と判定して北の富士の勝ちとした(貴ノ花は既に「死に体」だと判断された)。このとき「つき手」を主張したものの受け入れられず差し違えとされた行司・25代木村庄之助は、その後引退に追い込まれる事態となった。当時の映像を見るとどちらが有利かきわどい内容であり、写真を見ると貴ノ花の両足は北の富士を打棄ろうとする力にあふれているようにも見える。
なお、翌3月場所に両者は再戦、このときも土俵際でもつれる展開となり、今度は北の富士が勇み足を取られ敗れている。こうした貴ノ花の強靭な足腰、奇跡的な逆転の連続に対し、当時の相撲解説者・玉ノ海梅吉が「貴ノ花の足腰にはもうひとつの生命がある」との名セリフを残した。
同門の花籠部屋に入門してきた輪島大士とはライバル同士になり、激しい争いを演じた。その一方、プライベートでは大の親友だったとも言われている。両者大関とりとなる1972年(昭和47年)9月場所の千秋楽では、輪島との大熱戦で負けはしたものの、場所後二人が揃って大関に昇進した。この日は蔵前国技館に観戦に来ていた皇太子夫妻(今上天皇・美智子皇后)もこの大熱戦に大喜びだったという。
[編集] 大関時代
輪島は大関4場所目に全勝優勝(この時は貴ノ花が優勝旗手だった)して綱をとったが、貴ノ花はなかなか優勝できなかった。周囲からは貴輪(きりん)時代を期待されたが結局のところ実現せず、その後に急成長してきた怪童・北の湖敏満に実力面で追い抜かれ、輪湖(りんこ)時代が訪れることになる。
1975年(昭和50年)3月千秋楽、ただ1人1敗の貴ノ花は2敗の横綱・北の湖と対戦、勝てば初優勝だったが負けて決定戦になった。しかし決定戦では見事に勝って初優勝を果たす。この瞬間、場内には興奮した観客の投げた座布団が乱れ飛び、貴ノ花の人気がいかにすさまじかったかを物語っている。本来は審判部長の高砂が渡すべき優勝旗は、協会の配慮によって、兄であり師匠でもある二子山親方の手から渡された。同年9月にも同じようにして12勝3敗で優勝。横綱昇進を期待されたが、腎臓病や足の怪我に悩まされて果たせなかった。一時期貴乃花と改名したが効果はなくすぐに元に戻した。
結局のところ優勝は1975年の2回で終わっており、その時期が力士としての全盛期だったと言える。以降はゆるやかに力が衰えていき「クンロク大関」(9勝6敗レベルの成績を続ける力のない大関)、「サーカス相撲」(相手に押しまくられるが最後の最後で逆転勝ちするようなサーカスまがいの相撲)といった揶揄も受けるようになった。大関在位50場所という史上1位の記録を立てた一方、優勝争いに絡むようなことはほとんどなくなったのも事実である。
とはいえ細い身体で大きな相手に真っ向からぶつかっていく悲壮感あふれる取り口には、判官贔屓のファンが数多く付いており、人気はずっとナンバーワンだったと言える。甘いマスクもあって女性ファンからの人気も絶大だった。蔵前国技館時代の最高のスター力士だったと見る向きも多く、関係者の中には「両国国技館は貴ノ花が建てた」との意見があるほどだとされる。
特に当時最大級の巨漢だった高見山(現在の東関親方)との取り組みは大相撲きってのゴールデンカードであり、数々の名勝負が生まれている。高見山に押し倒される寸前、うっちゃりで体勢を入れ替えたのだが、貴ノ花の髷の先端がわずかに早く土俵に付いてしまい、負けとなった相撲などは大いに話題となった。取り組み後の「髷がなければ相撲は取れないからね」という発言も有名。
弟弟子である横綱・2代目若乃花が北の湖と優勝を争った際には、見事な援護射撃も行っている。脂が乗り切った大横綱の北の湖との取り組みでは、よほどのことがない限り貴ノ花が勝利することはなくなっていた時期のこと。誰もが敗戦を予想していたのだが、貴ノ花は立ち会いで一瞬の変化を見せ、北の湖は全く為す術もなくあっさりと土俵を割ってしまった。北の湖は取り組みの後で「他の力士なら変化もあるだろうと警戒するが、貴ノ花関は今まで一度も変化したことがないから、全く無防備だった」と語っている。貴ノ花が本場所の土俵で立ち会いの変化を見せたのはこの一回だけだと言われており、これも貴ノ花の土俵態度をよく物語るエピソードの一つである。
1980年(昭和55年)1月には、7勝8敗と大関昇進後唯一の負越を喫し、「次で負け越したら引退する」と背水の陣で望んだ3月場所は、2桁勝って面目躍如となった。しかしそれから1年後の、1981年(昭和56年)1月場所6日目の取組を最後に、30歳でついに土俵を去っていった。前1980年11月場所3日目、大関候補と呼ばれ日の出の勢いだった千代の富士に一方的に敗れ、その相撲を引き金に引退を決意したと言われている。長年、頭からぶつかる相撲だったために頸椎を痛めているなど、満身創痍の状態での引退だった。なお後年に大横綱に成長した千代の富士が引退を決意したのは、貴ノ花の実子である貴花田に敗れたのがきっかけと言われる。
[編集] 年寄時代
引退後に年寄・鳴戸を襲名し、二子山部屋付きの親方になる。1982年には藤島に名跡変更して分家独立し、藤島部屋を興した。後に長男の若花田勝(後の横綱・3代目若乃花)、次男の貴花田光司(後の横綱・貴乃花)が入門し、話題になった。ほかにも関脇安芸乃島勝巳や貴闘力忠茂、後に大関となる貴ノ浪貞博らの有力力士が育ち、藤島部屋は一気に有力部屋へと発展した。
兄であるニ子山親方の定年が近づくと年寄名跡を交換して年寄・二子山となりニ子山部屋を継承、藤島部屋と二子山部屋の合併により二子山部屋は一気に大部屋になったが、当時の貴花田にとって数少ない強敵(通算対戦成績で負け越している)だった三杉里との対戦がなくなるなどの点が指摘された。そして1994年11月場所後に次男の貴乃花が横綱に昇進すると、二子山部屋は絶頂期を迎えるが、1996年には年寄名跡『二子山』の譲渡金およそ3億円の申告漏れを指摘され、巡業部長の職を解かれた。1998年5月場所後には長男の若乃花も横綱に昇進し、兄弟同時横綱の壮挙が実現するが、その直後から若乃花・貴乃花兄弟の不仲や貴乃花の「洗脳騒動」など、周囲に暗雲が漂い始める。そして弟子の貴乃花が引退すると部屋を譲り部屋付きとなった。(これを機に、二子山部屋は貴乃花部屋と改称した。)協会では監事、続いて理事となり、巡業部長、審判部長を歴任し2004年(平成16年)2月から事業部長に就任した。
2003年(平成15年)秋ごろから二子山親方は体調を崩し、入退院を繰り返しながら病気療養を続けていた。2005年(平成17年)1月30日には、自ら勧誘した愛弟子の音羽山(大関・貴ノ浪貞博)の断髪式に入院先の病院から駆け付け、国技館内の観客からは大きな拍手が送られた。しかし投薬治療が長く続いた影響か、この時の二子山親方の顔色は明らかに優れず、頭髪も薄くなっていた。また親方が土俵に上がる際に自力で登る事が出来ず、呼び出しの手を借りなければならない程、体調は相当に悪化した状態だった。それまで公には口内炎と発表していたが、この頃には重病説などがささやかれるようになり、2005年(平成17年)2月23日には貴乃花親方が口腔底がんであることをマスコミに公表した。それから3カ月後の5月30日に、東京都文京区の順天堂医院で死去した。55歳。結果的に同年1月の貴ノ浪の引退相撲が、二子山親方として最後の公の姿となってしまった。息子である花田勝と、貴乃花光司をめぐるスキャンダルに悩まされ、貴乃花部屋も衰えて関取不在の状況となり、憲子夫人とも2001年に離婚するなど、「角界のプリンス」と呼ばれた花形力士としてはいささか寂しい晩年であった。
2005年(平成17年)6月2日に各界著名人、ファンを集めて告別式が行われた。同月10日、従五位を贈位され、旭日小綬章を授与された。同月13日には、両国国技館で日本相撲協会葬が行われた。
[編集] 家系図
┌───┐ ○ ○ │ │ ○ ○ │ ┌─┴─┐ 男┬女 吉崎 武ノ里 ┌──┼─┬─────┐ 貴ノ花 若緑 女─大豪 初代若乃花 ┌─┴─┐ │ 貴乃花 3代若乃花 女--2代若乃花 (離婚)
[編集] 主な成績
- 通算成績:726勝490敗58休
- 幕内成績:578勝406敗58休
- 幕内在位:70場所
- 大関在位:50場所(史上1位)
[編集] 各段優勝
- 幕内最高優勝回数:2回
- 十両優勝:2回
- 序ノ口優勝:1回
[編集] 三賞・金星
[編集] 改名歴
- 花田 満(はなだ みつる)1965年5月場所-1969年11月場所
- 貴ノ花 満(たかのはな -)1970年1月場所-1973年7月場所
- 貴ノ花 利章(- としあき)1973年9月場所-1973年11月場所
- 貴ノ花 利彰(- としあき)1974年1月場所-1974年3月場所
- 貴ノ花 満郎(- みつお)1974年5月場所-1974年7月場所
- 貴ノ花 健士(- けんし)1974年9月場所-1977年9月場所
- 貴乃花 健士(たかのはな -)1977年11月場所-1978年5月場所
- 貴ノ花 利彰(たかのはな としあき)1978年7月場所-1981年1月場所
[編集] 年寄変遷
- 鳴戸 満(なると みつる)1981年1月-1981年12月
- 藤島 利彰(ふじしま としあき)1981年12月-1993年2月
- 二子山 利彰(ふたごやま としあき)1993年2月-1995年11月
- ニ子山 満(- みつる)1995年11月-2005年5月(死去)
[編集] 歌
- 「男涙のブルース」(1969年)
- 「貴ノ花 男の花道」(1975年)
[編集] 参考文献
- 『あたって砕けろ : 貴ノ花自伝』(講談社、1975年)
- 『裸の交友番付』(スポニチ出版、1981年、ISBN 4790309088)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 貴ノ花 利彰 - goo 大相撲