西アジア・中東史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西アジア・中東史(にしあじあ・ちゅうとうし)はメソポタミア文明に始まり、現代にいたるまでの同地域の歴史を指す。
世界四大文明の一つであるメソポタミア文明はウルなどの都市国家主体で、ジッグラトを建造するなど、卓越して洗練された文明を誇った。やがて、バビロニア、アッシリア、アケメネス朝ペルシャ、アルサケス朝パルティア (前247?~226)、ササン朝ペルシャ (226?~651) などが、支配した後、ムハンマドがジブリールよりアッラーの啓示を受け、イスラム教を開くと、正統カリフ時代 (632~661)、ウマイヤ朝 (661~750)、アッバース朝 (750~1258) と変遷の間に、周辺地域を次々と征服していき、イスラム教系の王朝は西はイベリア半島、東はインダス川、南はエジプト、北は小アジアをその領土とし、暗黒の中世を送ったヨーロッパに比べ、非常に優れた文明を誇った。 10世紀にブワイフ朝、11世紀に、セルジューク朝がバグダードへ入城した。イラン東部とアフガニスタン、いわゆる歴史上のホラーサーン地方では、11世紀にガズニ朝、12世紀にホラズム・シャー朝とゴール朝が繁栄した。
その後モンゴル帝国の台頭とともに、ホラズム・シャー朝は滅ぼされ、大半はイル・ハン国の領土となる。 イル・ハン国滅亡後、ティムール帝国が西アジアのほぼ全域を支配した。小アジア半島に建国したオスマン帝国 (1299~1922) は、1402年のアンカラの戦いで一時ティムールに敗れるが、やがて勢力を回復、1453年にコンスタンティノープルは陥落し、東ローマ帝国は滅亡、一気にバルカン半島、エジプトを征服し、東地中海を内海とする大帝国が完成した。 一方、シーア派系の神秘主義教団の指導者であったイスマーイール1世は、白羊朝を倒して1502年にサファヴィー朝を建国した。ササン朝以来900年ぶりのイラン人による民族王朝とされる(ただし異論もある)。一時火器をたくみに使うオスマン帝国との戦いに敗れるものの、16世紀末に即位した英主アッバース1世のもとで軍制を改革するとともに貿易によって首都イスファハーンは世界の半分といわれるほどの繁栄を誇った。サファヴィー朝の衰退後は、アフシャール朝、カージャール朝と続くが、欧米諸国とロシアによって半植民地化されていく。
オスマン帝国は、第一次世界大戦の敗戦により、戦勝国イギリス・フランスにより解体された。トルコの敗戦には、アラブ民族の反乱の力も大きかったが、英仏など列強はアラブ民族の民族自決を認めず、中東一帯はヨーロッパ諸国の植民地とされた。敗戦で多くの領土を失ったトルコは、近代化を掲げてケマル・アタテュルクらが小アジアで革命を起こし、トルコ共和国となった。
植民地化された地域も第二次世界大戦後に次々と独立、ほぼ現在ある国々となった。