白羊朝
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白羊朝(はくようちょう)は、チグリス川上流域を中心に東部アナトリアからイラン西部を支配したトルコ系のイスラム王朝(14世紀後半 - 1508年)。王朝の基礎となったのはトゥルクマーンと呼ばれるトルコ系遊牧民で、バヤンドル部族から出た君主を中心とする部族連合をもととする遊牧国家であった。日本語名として広く用いられている白羊朝は、トルコ語でこの部族連合がアク・コユンル(Akkoyunlu)、すなわち「『白い羊』に属する者」と呼ばれたことに由来する直訳名称である。
[編集] 歴史
バヤンドル部族は14世紀半ばまでに東部アナトリアのディヤルバクルを中心とする地域で勢力を蓄え、部族連合を形成した。実質上の王朝の始祖となるカラ・ユルク・オスマンは、ティムールが東部アナトリアに侵攻してきた際にティムール朝に服従し、ディヤルバクル地方の支配権を認められて勢力を確立した。
しかし、1404年にティムールが没するとティムール朝と敵対して勢力を衰えさせていたライバルの黒羊朝部族連合が勢力を拡大させ、1435年にはカラ・ユルク・オスマンが黒羊朝との戦いで戦死した。
その後、黒羊朝とティムール朝がアゼルバイジャンおよびイラン西部の支配を巡って激しく争うとその間隙を縫って再び勢力を拡大し、1453年に即位した英主ウズン・ハサンのもとで最盛期を確立した。ウズン・ハサンは、はじめ黒羊朝の最盛期を築いたジャハーン・シャーに服属していたが、黒海岸のキリスト教国トレビゾンド帝国の皇女と結婚して同盟を結んで勢力を蓄え、1467年にジャハーン・シャーを急襲して殺害、それから数年のうちに黒羊朝の旧領を併呑した。1469年にはティムール朝のアブー=サイードを破ってイラン西部における覇権を確立し、東部アナトリアからイラク、アゼルバイジャン、イラン西部にまで及ぶ大帝国を築き上げる。
しかし、同時期にアナトリア西部から中部では、コンスタンティノポリスを征服してヨーロッパ側での拡大を一通り完成させ、今度はアナトリアの併呑を目指して東進していたオスマン帝国のメフメト2世の力が伸びつつあった。1473年、ウズン・ハサンはバシュケントの戦いでメフメト2世の大軍を迎え撃ち、精強な遊牧民の騎兵をもってよく善戦するが、オスマン帝国の誇る火器で装備された強力な常備軍の前に破れた。この敗戦により白羊朝の威信はおおいに没落し、1478年にウズン・ハサンが没すると王位を巡る争いが起こって王朝は混乱した。
ウズン・ハサン死後の王位争いを制したヤアクーブが1490年に没すると、もはや白羊朝に統一が戻ることがなかった。領内の各地にはそれぞれ王族が自立して相争い、白羊朝は急速に自壊していった。
1501年、アルダビールに本拠地を置く神秘主義教団サファヴィー教団の教主イスマーイールが教団員の遊牧民を糾合し、白羊朝の一族からタブリーズを奪った。白羊朝の王族たちは1508年までにイスマーイールによって全て追われ、白羊朝は滅亡した。
白羊朝にかわり、新たにアゼルバイジャン・イランの統治を確立したイスマーイールのサファヴィー朝も、その主力の軍隊はかつて白羊朝を支えた遊牧民たちであった。キズィルバシュと呼ばれた彼らの力により、サファヴィー朝はイラン全域を支配する王朝に発展することになる。