菊池武時
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菊池 武時(きくち たけとき、1292年(正応5年) - 1333年4月27日(元弘3年/正慶2年3月13日))は鎌倉時代末期の武将。菊池氏の第12代当主。第10代当主・菊池武房の子・菊池隆盛の次男。第11代当主・菊池時隆の弟。
幼名は正竜丸。父の隆盛が武房より先に死去した後、菊池氏の家督は兄の時隆が武房の養嗣子となって継いだが、叔父の菊池武経がこれに不満を持って対立し、結果として時隆と武経が共に滅んだため、その後を継いで当主となったのである。1333年、後醍醐天皇の綸旨を受けて九州における討幕勢力を結集し、鎮西探題の北条英時(赤橋英時)を攻めようとしたが、事前に英時に襲撃計画を察知されて英時や少弐貞経、大友貞宗らの反撃を受けて、子の菊池頼隆と共に殺害されてしまった。享年42。
武時は優れた武将であったが、北条英時を侮り、博多を焼き払って性急な討幕運動を目指したため、逆に少弐氏や大友氏の支持を得られず、自滅してしまったのである。しかし、武時の探題襲撃計画は九州における討幕運動の契機にもなったのであった。
建武の新政で楠木正成は、「武時は帝(後醍醐天皇)に一命を賭した忠臣第一の人」と賞賛し、武時の後を継いだ菊池武重は恩賞として肥後一国を与えられた。
法名は広福院真空寂阿。墓地は福岡市に首塚と胴塚がある。熊本県菊池市の菊池神社の主祭神として祀られている。
また、非常に子沢山で頼隆と武重のほかにも菊池武茂、菊池武澄、菊池隆舜、菊池武吉、菊池武義、菊池武光、菊池武尚、菊池武士、菊池武隆、菊池武敏、菊池武豊ら10数人以上がいた。江戸幕末の画家・菊池容斎は、武時の子孫であると伝えられる。