菊池武重
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菊池 武重(きくち たけしげ、1307年(徳治2年)? - 1338年(延元3年/暦応元年)?)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。菊池氏の第13代当主。第12代当主・菊池武時の嫡男。
1333年、父の武時と共に鎮西探題・北条英時を攻めたが、逆に英時や少弐貞経、大友貞宗らの反撃を受けて父は討死し、武重は命からがら本国に逃げ帰った。後醍醐天皇による建武の新政が始まると、亡父の功績を賞されて肥後一国を与えられた。
1335年、足利尊氏が後醍醐天皇に反逆して鎌倉より軍を率いて侵攻すると、弟の菊池武吉と共に新田義貞の軍に加わって足利軍と戦ったが、敗れて京都に逃げ帰った。その後、九州に落ちた尊氏が再挙して攻め上ってくると、武重は兵庫など各地で足利軍と戦ったが、敗れて足利軍に捕らえられた。しかし一命は助けられて、肥後に送り返されている。
1337年2月、九州における南朝勢力を結集して北朝勢力と戦ったが、1338年に死去。後を弟の菊池武士が継いだ。
没年には異説も多く、1341年、もしくは1342年説もある。さらに42歳(正慶2年3月13日博多で討死)とも家譜にはある。出生年も定かではない。法名は言盆真空寂阿大居士。
一族の結束の為、菊池家憲「寄合衆内談の事」を作り、武重の血判が押されてある。血判文書としては最古のもので、菊池千本槍(国指定重要文化財)と共に現在も菊池神社に保存されている。菊池武時、菊池武光と共に、建武中興十五社のうちの一社である菊池神社(熊本県菊池市)の主祭神として祀られている。