若秩父高明
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若秩父 髙明(わかちちぶ こうめい、1939年3月16日 - )は、埼玉県秩父郡(現在の秩父市)出身の花籠部屋所属の元大相撲力士。最高位は関脇。本名は加藤髙明。よく「たかあき」と書かれるそうだが四股名も本名も「こうめい」である。
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[編集] 来歴
小学生の頃から大飯喰らいの影響か体が大きく影森中学校では相撲部で活躍した。1954年(昭和29年)4月に花籠部屋が2代花籠親方(住ノ江平五郎)の追善を行なった際に小部屋で興行の間が持たないことから飛び入り参加を許されこの際に勧誘された。母親からは激しく反対されたが2代目花籠の墓の発見者である地元の外科医院の院長の説得により高校を中退して入門、1954年(昭和29年)5月初土俵。故郷秩父と若ノ花から若秩父と命名された。
若ノ花の指導がよく稽古熱心なため出世も順調で1958年(昭和33年)1月新十両、5月には富樫、北葉山、若三杉、冨士錦、明歩谷、玉響ら7人の決定戦を制して十両優勝した。この時の7人全員が若い有望力士であることから黒澤明監督の映画にもじって「7人の侍」と呼ばれた。事実平幕止まりの玉響を除けば全員が後に名力士と呼ばれ富樫(柏戸)、北葉山、若三杉、冨士錦(富士錦)の4人が幕内優勝力士、明歩谷(明武谷)も優勝こそないが決定戦に出場すること2回、最高位も富樫は横綱、北葉山は大関、若秩父、若三杉、明歩谷の3人は関脇、冨士錦は小結まで進んだ。
9月新入幕でいきなり12勝3敗の好成績で敢闘賞を獲得し注目される。1959年(昭和34年)1月に横綱・千代の山に引導を渡す金星を獲得、本人も後に定年前最後のTV出演となるNHK大相撲中継で向正面に座った際に出される現役時代を代表する取組として「生涯最高の思い出の1番」として選択した。しかもこの時の正面解説は偶然にも千代の山の弟子北の富士勝昭だった。
物怖じしない性格で素質にも恵まれているため大関昇進を大いに期待された。しかし当時「力士の職業病」と呼ばれた糖尿病にかかり三役に定着できず大関の夢は果たせなかった。幕内の座を明け渡したこともあったが禁酒禁煙を実行し食事にも気を遣うなどして治療に努め力士の模範と称された。晩年には十両と幕内の往復を繰り返したが決して休場せずに務め続けた。
1968年(昭和43年)11月場所を最後に引退、年寄・関ノ戸を経て常盤山を襲名した。花籠部屋の部屋付き親方となったが、花籠部屋消滅に際し後継を辞退し、放駒部屋に移籍した。2004年(平成16年)3月場所中に65歳になり場所後定年退職。本来は65歳の誕生日に定年退職するのだが本場所中の場合は千秋楽まで親方としての職務を続け千秋楽に停年に達したという扱いとなる。
大量の塩を攫み高々と撒くしぐさが有名で人気もあり時に塩をほんの僅かしか撒かない出羽錦との対戦では両者が比較されていた。
[編集] 改名歴
- 若秩父 高明(わかちちぶ こうめい)1954年5月場所-1959年3月場所
- 若秩父 清邦(- きよくに)1959年5月場所-1960年3月場所
- 若秩父 高明(- こうめい)1960年5月場所-1963年11月場所
- 若秩父 浩之(- ひろゆき)1964年1月場所-1966年9月場所
- 若秩父 高明(- こうめい)1966年11月場所-1967年11月場所
[編集] 年寄変遷
- 関ノ戸 高明(せきのと こうめい)1967年11月-1969年1月
- 常盤山 高明(ときわやま -)1969年1月-2004年3月