紀訶多麻呂
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紀訶多麻呂(きのかたまろ、生年不明 - 天武天皇8年(679年)2月3日)は、日本の飛鳥時代の人物である。名は堅麻呂とも書く。旧仮名遣いでの読みは同じ。姓(カバネ)は臣。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側に立ち、翌673年に造高市大寺司になった。
紀氏は飛鳥時代の有力氏族だが、訶多麻呂の系譜は不明である。天武天皇2年(673年)に、美濃王とともに、紀臣訶多麻呂は造高市大寺司に任命された。高市大寺は大安寺の前身である。訶多麻呂の位はこのとき小錦下であった。
天武天皇8年(679年)2月3日に紀臣堅麻呂は死んだ。壬申の年の功によって大錦上の位が贈られた。壬申の乱について記す『日本書紀』巻28、いわゆる「壬申紀」に訶多麻呂の名は見えないが、この死亡記事によって大海人皇子側で参加したことが知られる。