筑紫広門
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筑紫 広門(つくし ひろかど、弘治2年(1556年) ー 元和9年4月23日(1623年5月22日))は戦国時代、安土桃山時代の武将・大名。筑紫惟門の嫡男。筑後国上妻郡の国人領主。肥前国基肄郡勝尾城主。別称を義冬。左馬頭・上野介。号は夢庵。筑紫惟門の子。筑紫春門(主永)、高橋統増妻の父。
父惟門が大友氏に降伏し、まもなく没したため(その際に自害したとも)家督を継ぐ。耳川の戦いののちに反旗を翻すなど大友氏に反抗的であったが、のちに高橋紹運の縁戚となり再び大友氏の傘下となった。そのため、1586年に岩屋城の戦いの際には大友氏に味方し、島津氏に攻められて領地を奪われた。この際、弟の晴門は島津方の川上忠堅と壮絶な一騎討ちを演じて相討ち、戦死している。だが翌年、豊臣秀吉の九州征伐で筑後国上妻郡に1万8千石の所領を与えられた。文禄の役や慶長の役にも参陣し、小早川隆景の配下の部隊として奮戦する。1600年、関ケ原の戦いで西軍に属して京極高次が守る大津城を攻めたため、戦後、徳川家康によって筑紫氏は改易された。その後は加藤清正を頼ったという。死後、筑紫氏は島原の乱の戦功で旗本として再興した。
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