等々力家
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等々力家(とどろきけ)は長野県安曇野市(旧南安曇郡穂高町)にある歴史的建造物。
江戸時代の松本藩主の本陣として使用された施設で、穂高町文化財に指定されている。桃山中期の様式須弥山石組の庭園と、長屋門、書院は江戸中期の作である。
JR穂高駅から大王わさび園への道中にあるため毎年多くの観光客が訪れる。
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[編集] 等々力家の歴史
等々力という地名は、甲斐国等々力郷をはじめ全国にいくつかみられる。薩摩、阿波等では「轟」、下野では「登々呂木」の用字が使われており、それらはいずれも滝や沢の音から発した地名のように考えられる。 当地等々力は、穂高川と中曽根川(旧扉川)の自然堤防上に発達した集落で、後背に鳥川の自然流である本沢等のかかる水田地帯をひかえ、縄文式土器が出土しており、古くから開発されたところである。
等々力氏は、応永7年(1400年)、篠々井大塔での信濃国守護小笠原長秀に対しての大文字一揆において、仁科の一党(被官)として初めて現れる。(大塔物語)
武田信玄がこの地方を支配するようになったのが天文22年(1553年)で、大町森の城主には五男盛信をあてた。等々力氏は仁科盛信に随身し、穂高地方を領する。
永禄10年(1556年)武田信玄に対し、小県郡生島足島神社の神前で、忠誠を誓った起請文の中には、仁科の親類被官として等々力豊前守定厚の名がみえる。
天正8年(1580年)仁科盛信が、領中の馬市を穂高で開くに際し、等々力治右衛門尉に宛てた数通の書状がある。これらの文書は、馬市の監督を命ずるとともに、軍勢の動員と携帯すべき武具の心得等を通達しているものであり、当時のこの地方の武士の動静をうかがい知ることができる。
等々力氏は江戸時代に入ってからは郷士となり、武田氏のあと、この地方を治めるようになった小笠原氏に随身した。大阪冬の陣には、在郷武士として小笠原忠脩に従って出陣している。
等々力家は、東龍寺(現・東光寺の前身)の開基であり、天正18年(1590年)に貝梅の北城から当地に移建している。江戸の初期、松本城主石川氏のときに柏原、重柳等近隣諸村に分家を派出し、それぞれ保高組の大庄屋をつとめている。当地には松本藩の鮭、鴨の狩猟場があって等々力家は御本陣として殿様の野行の際の休憩所になっていたものである。
等々力家の屋敷構えは、長屋門があり、本屋の奥に殿様座敷等四部屋をつくっている。庭園は、桃山期の流れをくむ地方ではめずらしいもので、座敷とともに江戸中期に造られたものである。
なお、等々力家の子孫には、古美術界の権威である等々力孝志、現在古典文学研究家として各地で公演活動を行っている深草彬がいる。
[編集] 利用情報
- 入館料― 300円
- 開館時間― 8時30分~16時30分
- 開館日― 無休(12月頃~3月休業)
- 所在地― 長野県穂高町穂高等々力2945
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