笑福亭松鶴
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笑福亭 松鶴(しょうふくてい しょかく)は、上方落語の名跡。1996年に7代目が追贈されて以来、空位となっている。
- 初代 笑福亭松鶴( - 1866年1月)は、江戸の落語家。本名:桔梗屋正兵衛。初代松喬を名乗っていたこともある。得意演目「火消壷」享年不明。
- 2代目 笑福亭松鶴( - 1891年8月8日)は、江戸の落語家。本名:松本豊七。4代目吾竹を経て松鶴その後は圓笑に改名し講釈師になる。師匠は初代松鶴。享年不明。
- 3代目 笑福亭松鶴(1844年 - 1909年3月30日)は、江戸から明治時代の落語家。本名:武田亀太郎。26歳の頃、2代目立川三光に入門し立川光柳を名乗る。初桂慶治の門下にて桂慶枝そして2代目松鶴の元で稽古し3代目松喬を名乗る。京都に移り初代木鶴を経て1880年に3代目襲名。享年65歳。
- 4代目 笑福亭松鶴(1868年 - 1942年8月20日)は、明治から昭和の落語家。本名:森村米吉。1885年歌舞伎役者でデビュー。3代目松竹を名乗る。3代目松鶴の廃業により2代目桂文枝に再入門し両師の名から一字ずつもらった「桂枝鶴」を襲名。3代目が三友派に復帰伴い行動を共にし枝鶴を名乗る。その後4代目を襲名。三友派の衰退と共に吉本興業入り。1935年には弟子の2代目枝鶴に松鶴の名をゆずり 自らは松翁と名乗った。享年74歳。
- 5代目 笑福亭松鶴(1884年9月5日 - 1950年7月22日)は、明治から昭和の落語家。本名:竹内梅之助。1904年当時枝鶴だった4代目松鶴に入門。光鶴を名乗る。1年出征の後1906年に三友派の拠点「第三此花館」で初高座、三友派を離れ寿々会の創立に参加、解散後は神戸などを転々とする。帰阪後は新桂派を経て三友派に復帰、1921年の花月派(吉本興業)と反対派に合体そして翌年の三友派との合体で吉本入り、1936年「上方はなし」創刊、1937年吉本享年離脱。戦後、自宅を「楽語荘」と名付け若手の育成に力を入れたり1947年、文楽座での興行の成功や戎橋松竹開館にこぎつけるなど上方落語の復興に尽力を尽くした。67歳。
- 6代目 笑福亭松鶴(1918年8月17日 - 1986年9月5日)は、落語家。大阪府大阪市出身。5代目笑福亭松鶴の次男。本名:竹内 日出男(たけうち ひでお)。69歳。
- 7代目 笑福亭松鶴(1952年2月19日 - 1996年9月22日)は、日本の落語家。本名:倉本 雅生。享年44。
6代目笑福亭松鶴亡き後、誰が松鶴を継ぐかという問題でモメにモメた。先代の遺書には一番弟子の笑福亭仁鶴を7代目とすると記されていたが、仁鶴はこれを固辞。いろいろな理由はあろうが、仁鶴が松竹芸能ではなく、吉本興業所属の噺家であったこともそのひとつと言われている。結局、仁鶴が7番弟子の笑福亭松葉を7代目に指名し、決着する。しかし、その後松葉は病に倒れ、7代目を継ぐ事無く亡くなってしまう。7代目は松葉に追贈された。