稲田朋美
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稲田 朋美(いなだ ともみ、昭和34年(1959年)2月20日 ‐ 旧姓椿原つばきはら)は、平成期における日本の政治家。衆議院議員(1期)。弁護士。89年結婚し1男1女の母
生年月日 | 昭和34年(1959年)2月20日 |
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出生地 | 福井県今立郡今立町(現:越前市) |
出身校 | 早稲田大学法学部卒業 |
学位・資格 | 法学士 弁護士 |
前職・院外役職(現在) | 弁護士 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
衆・法務委員会委員 |
世襲の有無 | 無 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
福井1区 |
当選回数 | 1回 |
所属党派(現在) | 自由民主党(清和政策研究会) |
党役職(現在) | 国会対策委員 |
会館部屋番号 | 衆・第2議員会館235号室 |
ウェブサイト | 稲田朋美ホームページ |
目次 |
[編集] 概要
- 郵政民営化法案に反対した松宮勲への「刺客」候補として、福井1区から自由民主党公認で出馬することを05年8月18日自由民主党本部で正式に表明。無所属で出馬した松宮や民主党公認の笹木竜三らを抑え、小選挙区での当選を果たした。(稲田に白羽の矢を立てたのは幹事長代理安倍晋三の意を受けた参院議員山谷えり子)当選後最初に雇用した政策秘書は、05年不出馬で引退した中村正三郎 の下から移籍した。
- 2006年9月の自由民主党総裁選挙では、安倍を支持すると見られていたが実際は麻生太郎を支持し松本純と立候補届出人を務めた。同年12月7日かつての中村や安倍や山谷の属する清和政策研究会入会
- 自身の資金管理団体『ともみ組』会長は渡部昇一
[編集] 政策態度
- 皇室典範改正問題では05年自民党新人代議士の中でいち早く反対の立場を表明。慎重審議へ署名した議員とともに「伝統と創造の会」を結成し、会長に就任した。
- 稲田は06年3月、83会で出版した「UBUDAS」の自身の自己紹介の中で、「総理大臣になりたいか?」との質問に「はい。祖国再建を目標に政治家になった以上、当然目指すべきだと思う。」と回答している。「尊敬する人物は?」との質問には「西郷隆盛」と答えた。
- 2006年6月3日の産經新聞に靖国神社A級戦犯合祀と昭和天皇の参拝中止の間に因果関係がない旨の文を発表。2006年8月15日靖国神社での日本会議等が主催した集会では、神道に基づく靖国神社の国家護持を提唱し、「首相の靖国参拝を阻止しようとする忘恩の輩(やから)に道徳・教育等を語る資格はない」と発言。『WiLL』9月号では、「靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでないといけないんです」と主張。将来戦死者を出すことを想定した発言である。
- 同年8月29日、「『立ち上がれ! 日本』ネットワーク」(事務局長・伊藤哲夫)主催のシンポジウム「新政権に何を期待するか?」でニート問題を解決するために徴農制度(強制して農業に従事させようとした政策。中国やカンボジアで例がある)を実施すべきだと主張した(『産經新聞』9月4日号「首相主導で「教育再生」」)。
- また、『北海道新聞』9月5日号「自民総裁選の底流 安倍政治の行方1」によると、前出シンポジウムの席上で、靖国参拝反対派の加藤紘一と対談したことが紹介された。その後で、加藤の実家が右翼団体幹部に放火された事件について、「対談記事が掲載された十五日[1]に、先生の家が丸焼けになった」と「軽い口調で話し」、「約三百五十人の会場は爆笑に包まれた」という。道新は「言論の自由を侵す重大なテロへの危機感は、そこには微塵もなかった」と批判した。
- 靖国神社参拝関連訴訟の国側の弁護・南京百人斬り名誉毀損裁判(リンク参照)の原告側弁護・沖縄集団自決冤罪訴訟の原告側の弁護などを手がける。
- 自由主義史観研究会・日本「南京」学会などに所属し、保守派の弁護士として月刊誌『諸君!』『正論』などに頻繁に登場している。また維新政党・新風講師でもあった。(06年6月新風HP講師団リストから稲田の氏名が削除された。)
[編集] 略歴
[編集] 経歴
- 昭和52年(1977年)
- 3月 京都府立乙訓高等学校卒業。
- 昭和56年(1981年)
- 昭和57年(1982年)
- 司法試験合格。
- 昭和58年(1983年)
- 昭和60年(1985年)
- 弁護士登録(大阪弁護士会所属)。
[編集] 政歴
- 平成17年(2005年)
- 9月11日 第44回衆議院議員総選挙(福井1区・自由民主党公認)当選。51,242票。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 稲田朋美ホームページ(公式サイト)
- 自由民主党福井県支部連合会