真里谷信隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
真里谷 信隆(まりやつ のぶたか、明応5年(1496年)? - 天文20年8月2日(1551年9月2日))は、上総国の戦国大名。真里谷信保の子。真里谷信政の父。
信保の庶子であったが、長男で一人息子であったために後継者に指名された。ところが、後に信保の正室が真里谷信応を生んだ事から複雑な事になる。父が足利義明と対立し、これに敗れて隠居すると、その後を継いで当主となった。しかしこれに義明が猛反対して、嫡子である異母弟・信応を擁立する。この信応の家督相続に対して一族の有力者である真里谷信助も支持したため、信隆は椎津城に逃れて北条氏綱の支援を受けるが、里見義堯が信応方に参戦したために、武蔵国金沢(現在の神奈川県横浜市金沢区)に逃れた。
そして1538年、国府台合戦で義明が戦死すると、氏綱方に加わっていた信隆はその支援を背景にして信応を破り、再び家督を取り戻したのである。しかしこの経緯から、関東征服に野望を燃やす氏綱・北条氏康の家臣同然の身となった。また、晩年は復讐心から信応派についた一族・家臣を多数謀殺してしまったためにその祟りによって死亡したという伝説が残されている。