真里谷信応
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真里谷 信応(まりやつ のぶまさ、永正12年(1515年) - 天文21年11月7日(1552年11月22日))は、上総国の戦国大名。真里谷信保の子。
信保の正式な嫡男であったが、誕生時には既に庶兄の真里谷信隆が後継者として立てられていたため、父が隠居したときに家督を継ぐことができなかった。しかし庶兄である信隆が家督を継いだことに不満を覚えて、兄の対立者である足利義明や一族の有力者である真里谷信助らの支持を得て、兄を破って家督を奪った。
しかし足利義明が国府台合戦で戦死すると、後ろ盾を失う。そして北条氏綱と手を結んだ信隆の反撃にあって家督を奪われ、追放された。以後は里見義堯を頼ったと言われている。
だが、信隆の後を継いだ真里谷信政が義堯に攻められると、突然里見氏に反旗を翻してこれに抵抗して甥である信政を助ける。既に同族の真里谷朝信が里見氏の正木時茂に討たれて大多喜城を奪われており、里見氏の野望が真里谷氏そのものに向けられているという危機感を感じたためであると推測される。
だが、天正21年11月4日に椎津城が落とされて信政が自害し、その3日後には信応も自害に追い込まれた。この年の12月14日に北条氏康が信応供養のために寺領を寄付している。