畠山義綱
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畠山 義綱(はたけやま よしつな、生年不詳 - 文禄2年12月21日(1593年2月11日))は能登の戦国大名畠山氏当主。畠山義続の嫡男で、妻は六角義賢の娘。幼名次郎。修理大夫を受領。能登守護・七尾城城主。義胤。出家後は徳栄と名乗る。
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時代 | 戦国時代後期 | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 文禄2年(1593年) | |||
別名 | 次郎(幼名) | |||
官位 | 修理大夫 | |||
戒名 | 興禅院華岳徳栄居士 | |||
氏族 | 畠山氏(能登系) | |||
父母 | 父:畠山義続 | |||
兄弟 | 弟:畠山義春 | |||
子 | 子:畠山義慶、畠山義隆 |
目次 |
[編集] 家督の継承
1551年(天文21年)、父義続が前年に起きた能登天文の内乱での責任を取って隠居したことで、義綱は家督を譲られ継承した。また、隠居は重臣たちの義続への反感をそらす目的もあったと思われる。そのため、義綱政権の初期では、義続が後見となり重臣たちの権力を削減するために暗躍し、傀儡化した大名権力の復興を目指していたため、義綱の主体的な行動は1555年まであまりみられない。
[編集] 大名専制支配の確立
1555年(弘治元年)という年は、重臣の政治合議組織で大名権力を奪った「畠山七人衆」を崩壊させるため、家中で随一の勢力を誇る温井総貞を暗殺した年であった。この暗殺事件をきっかけに始まった弘治の内乱では、温井氏とそれに近い立場の三宅氏が加賀の本願寺を味方に大規模な反乱を起こし、一時は外浦を占領されるなど、苦境に立たされたが、この内乱の危機的状況をきっかけに義綱は家中をまとめることに成功し、大名専制支配を確立したのである。
このため、能登畠山家では1560年から1566年の時期、それまでに見られない強力な支配体制を実現し、戦国大名への移行を徐々にではあるが実現しつつあった。実際この6年間は前当主義続の頃と違い、戦国の世にあってほとんど能登国内での戦争や内乱をみることなかった。また、将軍家への贈答を1561年に再開したり、気多社の造営を朝廷の許可を得て実行するなど、中央政権に接近して権威を高める政策を行っている。さらに、1562年には上杉謙信に攻められた神保長職に仲介を頼まれ争いを調停し合意させるなど、その権威・権力はこの時期の能登畠山家としては非常に安定していたと言える。
[編集] 永禄九年の政変
しかし、この平和な時期も長くは続かなかった。大名専制支配に反発した長続連、遊佐続光、八代俊盛などの重臣が1566年に永禄九年の政変というクーデターを起こした。この結果、義綱と父・義続は追放され近江に亡命した。守護大名出身である能登畠山氏は、家臣は国人領主など半ば独立勢力が多く、その大名権力は連合盟主的な存在であった。また、大名直轄軍も存在せず軍事力で家臣を圧倒することもできなかった。そのような能登畠山氏が重臣権力を削減し大名専制支配を実現しようとすれば、重臣の反発は必須であり、1566年に起こった永禄九年の政変というクーデターは必然的に起こったと言えよう。
[編集] 亡命後の義綱
追放された義綱は、近江に亡命した。上杉謙信や神保長職は義綱の国政復帰を願っていたので、妻の実家の六角氏の援助を受けつつ、復権を試みることにしたのだった。そして2年後の1568年(永禄11年)に、上杉謙信や神保長職と共同して能登に攻め込んだが、失敗し敗退した。ちなみに、同年に六角氏は織田信長の侵攻を受けており、義綱を応援する勢力はこの年を境に著しく減退した。結局、復権することは叶わなかった。後の豊臣秀吉の臣となったという史料もあるが定かではない。義綱は1593年12月21日、近江国伊香郡の余吾浦で波乱の生涯に幕を降ろした。法名は興禅院華岳徳栄居士。
[編集] 追記
義綱は永禄九年の政変後に一時「義胤」と改名したが、数年で元の「義綱」に名を戻している。永禄11年の能登復帰戦で敗れたことなどで、運が悪かったため再改名したのであろうか。
義綱の花押は、祖父畠山義総に非常に似ているものを書いている。これは、30年にわたって領国能登を安定させ繁栄させた祖父を尊敬しているためであろうか。
義綱の二人の息子である(義慶・義隆)は、傀儡君主として重臣たちに擁立され、そのうえ父より早くこの世を去るという悲哀を味わっている。