畠山義慶
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畠山 義慶(はたけやま よしのり、天文23年(1554年) - 天正2年(1574年))は能登の戦国大名畠山氏の当主。畠山義綱の嫡男。
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時代 | 戦国時代後期 | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 天正2年(1574年) | |||
別名 | 次郎(幼名) | |||
官位 | 修理大夫 | |||
戒名 | 不明 | |||
氏族 | 畠山氏(能登系) | |||
父母 | 父:畠山義綱 | |||
兄弟 | 弟:畠山義隆 | |||
子 | 子:なし |
1566年に永禄九年の政変にて祖父・畠山義続と父・畠山義綱が重臣たちによって追放されると、跡継ぎとして擁立された。しかし、自身が幼かったこともあり、何の権限も無かった。しかし、1571年(元亀2年)に修理大夫を受領し、1573年(天正元年)には能登の一宮気多大社造営をするのに義慶の名が見えるなど、その行動が知られる。これは1571年(元亀2年)頃元服したと言われている青年になった義慶が徐々に発言力を強めようとしたためであろうか。
1574年(天正2年)に突如死去した義慶は、病死説もあるが、暗殺されたと見る方が自然であろう。なぜなら主導権をめぐって争った重臣たちが、義慶の自立を快く思うはずがないからである。史料によっては暗殺説も書かれているが、その主犯は遊佐続光、温井景隆であるとか、長続連であるとか、一定しない。結局、うやむやのうちに真相を隠されてしまったのであろう。暗殺した主犯より、次の当主で誰が主導権を握るかということが重視された結果であろうか。義慶の死後は弟の畠山義隆が継いだ。