大森氏
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大森氏(おおもりし)は清和源氏に属する日本の氏族の一。
[編集] 伊予大森氏の歴史に関する伝承
伊予国砥部の大森氏においては、以下のように伝えられている。 宇野源氏の祖、源頼親の七代の孫親治の四代の孫にあたる源茂治が、下総国大森に住したことにより大森姓を名乗るようになるが、茂治は承久の乱に際して御所において戦死、その功績により伊予国に所領を得て一支族が移住。松山平野南部を流れる現重信川北岸の高井を拠点として松山平野一帯に勢力を広げた。
しかしその後、鎌倉幕府の滅亡、中先代の乱とつづく混乱の中で、松山平野北東部の赤滝落城で大森長治、高井落城で大森春直の一族が滅亡し、その領地のほとんどを失うが、そのころ上京していた大森彦七盛長が足利尊氏に従って功績を挙げ、砥部・中山に所領を得た。おそらく松山平野一帯は守護河野氏に抑えられてしまっていたので、足利政権としてもそれを取り返すことが出来なかったために、松山平野の南部、砥部・中山に領地を与えたものと思われる。
砥部大森氏は、南北朝の動乱を生き抜き、その後文明12年(1480年)大森直治の代まで続くが、12月29日、河野氏の命を受けた荏原の平岡通則に夜討を仕掛けられて滅亡。その後、白潟、田中両氏に分かれ、河野氏の下に入ることになる。主として白潟(城方?)氏が河野氏との関係維持に働き、田中氏が領地の経営にあたっていたらしい。
田中氏は、豊臣秀吉の四国征伐で河野氏が滅亡した後、松山藩で砥部20村の大庄屋を務め、関ヶ原合戦の後も、引き続き、大洲藩に移された砥部の大庄屋として寛保元年(1741年)、田中喜左衛門権内が砥部騒動を引き起こすまで続くことになる。
上代の系図は尊卑分脈や源家隈部系図に詳しいが、いくらかの相違もある。それらでは
大森二郎茂治--三郎治員--行治--彦二郎盛治--彦七盛長--太郎盛家
の順であるが、砥部大森氏にあっては、彦二郎盛治が次郎佐衛門盛清とされている。
なお、大森彦七の出自については色々といわれているが、上記のような家系であったことは砥部大森氏に強く意識されていたらしい。それは、大三島神社に彦七の大太刀(重要文化財、無銘豊後友行、刃長六尺、茎二尺)と称するものを寄進した大森直治が、自らを大森源左衛門尉源朝臣直治と称しているし、砥部の千足を承久の勲功の地と称していることなどから分かる。