狗奴国
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狗奴国(一般的には「くなこく」と読む)は、三国時代の歴史書三国志(西晋の陳寿の作)のうちの魏書の中の魏書東夷伝に記載されている邪馬台国と対立していた倭人の国。
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[編集] 概説
3世紀の倭国で邪馬台国の尽きるところである奴国の南に位置し、男王卑弥弓呼(一般的には「ひみここ」と読むが「ひこみこ」(彦御子)とする説がある)がおり、官を狗古智卑狗(一般的には「くこちひこ」と読むが「きくちひこ」(菊池彦)とする説がある)と言った。邪馬台国の女王卑弥呼と卑弥弓呼は「素より和せず」戦闘状態にあったが、この戦いの最中に卑弥呼が死去したという。
[編集] 読み下し文・原文
- その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。(中略)その八年(正始8年)、太守王頎官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとより和せず、倭の載斯・烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。
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- 「其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不囑女王 (中略)其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼興狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状」 -- 『魏書』東夷伝
[編集] 位置に関する説
狗奴国の場所は邪馬台国の南としか魏志倭人伝に記載されていないため、邪馬台国の位置に諸説ある現状では、狗奴国の場所も比定されていない。
邪馬台国の比定地について学界の主流は畿内説と北九州説に二分されているが、邪馬台国畿内説に立つ論者は狗奴国の位置を熊野、濃尾平野、毛野国、出雲地方等に、北九州説に立つ論者は肥後国菊池郡、同国球磨郡等に比定している。
[編集] 後裔に関する説
邪馬台国についてヤマト王権との関係に諸説あるように、狗奴国についても、その後どうなったのかを巡る諸説が対立している。主なものは、消滅説(邪馬台国に敗れ滅んだ)、東遷説(邪馬台国を滅ぼし東征しヤマト王権の母体となった)、継承説(熊襲になった)などがある。
更に近年、考古学の分野において古墳時代前期前半に前方後方墳を造営していた濃尾平野以東の東日本の諸勢力の前身で大型の前方後方形墳丘墓を営んでいた濃尾平野の勢力を狗奴国と見て、卑弥呼没後まもなく邪馬台国連合に統合され、徐々に吸収されたとする見解が出されている。
[編集] 狗奴国が存在していた時代
[編集] 関連項目
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