清水國明
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清水 國明(しみず くにあき、1950年10月15日 - )は、日本の国際A級ライセンスライダー・タレント・歌手・作家・釣り師、冒険家である。アウトドア・キャンプ愛好者としてあまりにも著名。
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[編集] 経歴・人物
福井県大野郡和泉村(現大野市)出身。福井県立大野高等学校、京都産業大学法学部卒。
1973年に、原田伸郎とのコンビで「あのねのね」として、「赤とんぼの唄」でデビュー。大ヒットを記録した。「あのねのね」結成当初は4人編成で、残る2人は笑福亭鶴瓶とその妻だった。
「あのねのね」時代は台本を書き、芸でも原田をリードする立場だった。80年代になると担当していたラジオ番組でリスナーからの一枚のハガキから話が膨らみ、鈴鹿8時間耐久ロードレースに出場を宣言。当時、レースはおろかバイクの免許さえ持っていなかったが一念発起して二輪免許を取得。自身のサポートクラブ的団体である國武舞レーシングを主宰しバイク業界で精力的に活動を始める。84年には8耐の登竜門的レースである鈴鹿4時間耐久レースに出場、なんとか完走を果たす。翌85年も4耐に出場。その後、八耐出場に必要な国際A級ライセンスを取得し、1990年、元世界GPライダーの福田照男とペアを組み8耐に初参戦。予選で鎖骨を骨折するトラブルに見舞われながらも見事完走を果たした。そして、これをもってレース界からの引退を宣言する。90年代からはアウトドアに凝るようになった。山に篭って木を切ることを生きがいとしており、近年「復活ライブ」を行う際には原田が台本を書いている。原田はその際「勘弁してくれよ。俺、ネタなんか考えたことないねん」と語っている。
私生活では歌手をしていた清水クーコと結婚、カカア天下&おしどり夫婦としてしられたが離婚(子なし)。清水・クーコとも離婚の理由を一切沈黙したが、当時芸能人は離婚を公表する際、虚実はともあれ離婚の理由・経緯を一通りマスコミに説明するのが普通だったので、元夫婦がとった行動は当時としては異例だった。クーコはしばらくあのねのね事務所に所属・芸能活動、そして国明とはよき友人関係を続けたが、自身の海外留学・清水の再婚が決まったことなどを機に事実上引退。クーコは1991年3月子宮頸癌により他界したが、クーコの葬儀の喪主は清水が務め、最後まで「良きパートナー」を貫いた。
現在の妻(一般人)との間に三人の娘を授かった。清水がアウトドア活動を本格化させたのはこのころからで、「義務教育に達してからでは子らに自然とのふれあい・遠方への旅の経験を積ませるのに制約がある」と、妻・幼い娘たち(三女は後年出生)とキャンピングカーで全国を回ったことはあまりにも有名である。
姉の橋本真由美は、BOOK OFFの代表取締役社長兼COOである。その縁で、本人が同社のCMに出演している。
[編集] 主な出演
[編集] テレビ番組
- ◇過去
- ヤンヤン歌うスタジオ(テレビ東京)
- オールスターものまね王座決定戦(フジテレビ)
- たったひとつの地球(NHK教育)
- タミヤRCカーグランプリ(テレビ東京)
- うわさのチャンネル(日本テレビ)
[編集] ラジオ番組
- 清水國明の気分はトムソーヤー(岐阜ラジオほか)
- 清水國明のフォレストパラダイス(静岡放送ほか)
[編集] CM
[編集] 主な著書
- 1984年 - 『そらもうぶっちぎり! とはいわんけどな』ベストバイク社/講談社
- 1997年 - 『清水國明の自然遊び日記~丸太小屋編』読売新聞社
- 1999年 - 『遊YOUキッズアドベンチャー』ベースボール・マガジン社
- 2000年 - 『清水國明の人の釣り見て、わが釣り直す』 祥伝社黄金文庫
- 2001年 - 『清水國明の東京リトルガリバー』東急エージェンシー
- 2005年 - 『森のチカラ、生きるチカラ』日東書院
- 2005年 - 『直角死』日東書院
- 2006年 - 『絵手紙入門』幻冬舎