海陵王
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海陵王(かいりょうおう、1122年 - 1161年)は、金の第4代皇帝(在位1149年 - 1161年)。金の太祖阿骨打の庶長子である遼王・宗幹(斡本=オベン)の次男。姓は完顔、漢名は亮、字は元功。女真名は迪古乃(ディグナ、またはテクナイとも)。海陵王は即位前の王号。後に殺害されて廃位され、王号も剥奪されて庶人に落とされたため、廃帝海陵庶人と呼ばれる。諡は煬。生母は大氏。正妻は女真貴族の徒単斜也の娘の従単皇后。
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[編集] 生涯
宗室の子である故をもって1140年には奉国上将軍となり、最前線で南宋と当たっている叔父の梁王・宗弼(斡啜=オット、または兀朮=ウロジュ)の軍に派遣されて軍職を務めた。1144年には中京留守になって前線を離れ、その後尚書左丞、平章政事、右丞相など宰相格の重職を歴任した。
1149年、第3代皇帝であった煕宗が奢侈や粛清などの暴政を繰り返して人望を失っているのを見て、自派の重臣らと共謀して煕宗を廃して殺害し、自ら第4代皇帝に即位した。
金の建国後に生まれた海陵王は若い頃から中国文化に親しんで優れた教養を持ち、中国文化の奨励を行なった。だが、その一方で彼は猜疑心が強く残忍な性格で、1152年に皇帝の独裁権を強化するために、左丞相兼中書令の阿魯(宗盤・宗本)と烏帯(宗言)父子ら大叔父・太宗の子孫70余人と、族父(父の従兄)の秦王・粘没喝(宗翰)の子孫(乙卒ら)50余人など金の宗室系の諸王ら一族の実力者と、目障りな元勲の子孫達を次々とまとめて粛清した。さらに奢侈に走って国民に重税を強いるなど暴政の度合いを深め、多くの者が海陵王を憎悪するようになり始めた。そして自分を諫言した嫡母(父の正室で、従単皇后の姑母=おば)の従単氏に対して「わしに楯突くこの目障りな婆あを焼き殺してしまえ!」と年老いた彼女を罵って、この嫡母を焼き殺した挙句にその遺体を近くの河に放り投げて捨て更に嫡母の侍女も皆殺しにしたという。また、将来の禍を避けるために遼の天祚帝(紹宗)の末裔の耶律氏と北宋の趙桓(欽宗)の末裔の趙氏ら60余人の若者達を殺害し若い女を後宮に入れたという。
1161年、海陵王は周囲の反対を押し切り、自ら軍を率いて南宋に遠征した。だが南宋にも名将の虞允文が頑健に籠城していた。また、金軍の大半が契丹人で編成されていたために軍の統率がうまくいかなかった上、留守中の本国においては海陵王に反対する派が、従弟に当たる世宗(葛王・烏禄)を皇帝として擁立したため、海陵王は進退窮まることとなり、南征中の陣中である楊州の亀山寺で部下で遼の宗室系の契丹人である浙西道兵馬都統制・完顔元宜(耶律阿列、または移刺特輦。耶律慎思の子)の軍隊によって、ついに彼は血塗れて殺害された。齢40。
死後、皇帝の資格なしとして世宗により海陵郡王に降格され、さらに王の資格も無く、王族の籍を外されてしまい庶人に落とされた。
[編集] 宗室
[編集] 妻妾
- 徒単皇后
- 大元妃(母方従妹)
- 唐括貴妃
- 蕭宸妃
- 耶律麗妃
- 唐括麗妃
- 蒲察昭妃
- 昭妃阿懶
- 耶律柔妃
- 唐括柔妃
- 耶律昭媛
- 高修伏儀
- 南才貴人
- 唐括蒲魯胡只(唐括麗妃妹)
[編集] 子女
- 皇太子光英
- 崇王元壽
- 宿王矧思阿補
- 滕王広陽