浜田城
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二の門跡(2004.8) | |
通称 |
亀山城 |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
独立式三重(非現存) |
築城主 |
古田重治 |
築城年 |
1619年 |
主な改修者 |
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主な城主 |
古田氏、本多氏、松平氏 |
廃城年 |
1866年 |
遺構 |
石垣、門(他所より移築) |
浜田城(はまだじょう)は日本の城。所在地は島根県浜田市殿町。別名・亀山城。
[編集] 概要
梯郭式平山城。築城は新しく江戸時代初期、元和偃武の後の元和5年(1619年)に浜田市中心部の標高68mの丘陵・亀山に築城された。約0.3haの広さを持つ本丸にはかつて高さ14mの三重天守が明治時代初頭まで存していたようだ。本丸の下に狭い二の丸・三の丸・出丸が配されていた。北部を松原湾、東部を浅井川、南部・西部を浜田川によって天然の堀割としていた。
浜田城を藩庁とした浜田藩は最初の藩主・古田氏以外は譜代・親藩が入れ替わり治め、長州藩に対する山陰側の押さえの最前線とされた。
建物は長州征伐で長州藩軍に攻められた際に(当時の浜田藩主は松平武聡)、藩兵が火を放ち殆どが焼失した。
現在は城山公園として、本丸から三の丸にかけて階段状に石垣が残り、登城口に津和野藩武家屋敷より移築された門がある。また、登城口には司馬遼太郎の碑文『浜田藩追懐の碑』がある。
[編集] 歴史
- 元和5年(1619年)古田重治が大坂の陣の功績により浜田に5万4千石を与えられ入封。
- 元和6年(1620年)2月、築城開始。
- 元和9年(1623年)5月、城と城下町が完成。
- 慶安元年(1648年)2代・重恒、お家騒動(古田騒動)を起こし改易。
- 慶安2年(1649年)松平(松井)康映が5万石で入封。5代にわたって在封。
- 宝暦9年(1759年)5代・康福、下総国古河藩に転封。本多忠敞が5万石で入封。
- 明和6年(1769年)3代・忠粛、三河国岡崎藩に転封。同地より松平(松井)康福が再び55,400石で入封。
- 天保7年(1836年)3代・康任の時、清・朝鮮との密貿易(竹島事件)が発覚。康任は隠居し、4代・康爵は陸奥国棚倉藩へ転封。上野国館林藩より松平(越智)斉厚が6万1千石で入封。
- 慶応2年(1866年)第二次長州征伐。長州藩の大村益次郎が進軍。藩主・武聡は戦わずして逃走。この際に、敗残の兵が浜田城、浜田の街に放火し同時に灰燼に帰した。
- 昭和37年(1962年)県指定史跡に指定される。
- 昭和42年(1967年)浜田県庁正門(津和野藩武家屋敷の門)移築。
[編集] 関連項目
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