津和野藩
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津和野藩(つわのはん)は江戸時代に石見国津和野(島根県鹿足郡津和野町)周辺を治めていた藩。藩庁は津和野城に置かれた。
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[編集] 藩史
慶長6年(1601年)関ヶ原の戦いで宇喜多秀家の従兄弟であるが東軍方についた坂崎直盛が、戦功により3万石にて立藩。
元和元年(1616年)直盛は大阪の陣で千姫救出に活躍し、1万石の加増を受けた。翌、元和2年(1617年)直盛は家臣により殺害(自害したとも言われる)され断絶した。
代わって元和3年(1618年)因幡国鹿野藩より亀井政矩が4万3千石で入封。以来、亀井氏が明治時代まで藩主をつとめた。
江戸中期には紙を専売とし、家老・多胡氏を中心に新田開発を行うなど藩の財政は潤った。しかし、後期になると災害と凶作が続き財政は悪化した。そのような中、8代・矩賢は藩校「養老館」を創立した。尚、養老館は現存している。
最後の11代藩主・茲監は藩政改革を実行。また、神道を信奉し国学の発展に力を注いだ。幕末には長州藩の隣藩であったが中立を維持した。だが、その距離の近さから藩士の中には長州藩と行動を共にするものもあり、結果的には新政府内に人材を送り込むことになった。
明治4年(1871年)7月に詔勅された廃藩置県に先立って、茲監は廃藩建議書を提出し同時に藩知事を辞職した。その後、浜田県を経て島根県に編入された。
[編集] 歴代藩主
[編集] 坂崎(さかざき)家
外様 3万石→4万石 (1601年 - 1617年)
- 直盛(なおもり)〔従五位下・出羽守〕
[編集] 亀井(かめい)家
外様 4万3千石 (1618年 - 1871年)
- 政矩(まさのり)〔従五位下・豊前守〕
- 茲政(これまさ)〔従五位下・豊前守〕
- 茲親(これちか)〔従五位下・豊前守〕
- 茲満(これみつ)〔従五位下・因幡守〕
- 茲延(これのぶ)〔従五位下・豊前守〕
- 茲胤(これたね)〔従五位下・隠岐守〕
- 矩貞(のりさだ)〔従五位下・能登守〕
- 矩賢(のりかた)〔従五位下・隠岐守〕
- 茲尚(これなお)〔従五位下・大隅守〕
- 茲方(これかた)〔従五位下・能登守〕
- 茲監(これみ)〔従五位下・隠岐守〕