津軽信建
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時代 | 安土桃山時代 | |||
生誕 | 天正2年(1574年) | |||
死没 | 慶長12年10月(1607年) | |||
改名 | 平太郎 | |||
官位 | 宮内少輔、宮内大輔、左馬頭 | |||
氏族 | 津軽氏 | |||
父母 | 津軽為信 | |||
兄弟 | 信建、信堅、信枚、 富(津軽建広室)、大道寺直秀 |
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妻 | 秋田実季女、松前慶広女 | |||
子 | 熊千代(大熊)、弁千代、男子(三男) |
津軽 信建(つがる のぶたけ)は、津軽弘前藩初代の津軽為信の長男。別名を平太郎、宮内。子に津軽熊千代、津軽弁千代。
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[編集] 略伝
烏帽子親は石田三成。父の命により豊臣秀頼に小姓として仕え、大坂城に勤めるが、関が原の合戦にて西軍(石田三成)が敗れると、石田三成の次男石田重成を誘い津軽に逃れる。父為信は東軍として関が原での本戦に参戦していたため、真田氏などと同様の”家中二分による生き残り策”とも言われている。 そのためか、津軽家への東軍としての戦後加増は2000石に止まっている。よく言われる通説では、関が原合戦後蟄居し、そのまま病死した、とされることが多い。
[編集] 後継者として
だが戦後も徳川家康と面会したり、御所に参内して官位を授けられたり、国入りして藩政を父に代わって直裁するなど、為信の正式な後継者としての行動が確認できる。 石田重成らを若狭からの蝦夷貿易ルートで津軽へ逃したのち、信建本人は京・大坂に留まり、津軽家の外交要員として活動していたらしく、朝廷貴族らとの盛んな交流が貴族側の日記に残る。(西洞院時慶「時慶卿記」) 信建は父とは別に直臣団を持ち、津軽建広(為信娘婿にして養子)・津軽建友ら側近を軸に藩政に外交に精力的に、東奔西走して活動していた。 ただし父親に先立ったがために、正式に代を譲られてはいない。 また信建は弟信枚と同じく、父の命によりキリシタンとなっている。 慶長12年、京にて病を発症。同じ頃津軽にて、同じく病を患った為信が、信枚を伴い京まで見舞いに駆けつける。一説には信建の治療をしている名医に自分も診てもらいたかったからだとされる。 同年(1607年)10月13日(慶長12年2月とも)死去。享年34とされる。その二ヵ月後の12月、為信も死去。 西洞院時慶は死後数年、自身の菩提寺にて彼の法要を行ったらしい。
[編集] 天童事件
慶長7年には為信が誤って、手元に預かっていた孫の熊千代の顔に怪我をさせてしまう事故が起こった。信建は子供を返せ、と父と対立。その際使者に立った家臣・天童某の不手際を責め、一族を処刑した。これに怒った天童一族が信建に反抗して城内で乱闘、信建は命からがら逃げる一幕もあったが、最終的に天童一族は討伐された(天童事件)。 この事件の是非はともかく、事件の際、勝手知ったるとは言え、少数の天童方が津軽氏の居城・堀越城の本丸まで易々と突入に成功した事実により、沼田祐光の意見を採用した新城・高岡城(弘前城)への本拠地移転が早まった。
[編集] その後
為信の後は、弟の津軽信枚(為信三男)が継ぐことになったが、信枚派と信建の遺児熊千代(大熊)を擁立する建広ら旧信建直臣団派閥とに家中が二分する。
[編集] 関連項目
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