沼田祐光
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時代 | 安土桃山時代 | |||
生誕 | 天文7年(1538年)? | |||
死没 | 慶長17年(1612年)? | |||
改名 | 面松斎 | |||
戒名 | 清光院殿面松斎大居士 | |||
墓所 | 誓願寺(弘前市) | |||
氏族 | 沼田氏 | |||
父母 | 沼田顕泰 | |||
兄弟 | 景泰、憲泰、祐光、朝泰、景義 |
沼田 祐光(ぬまた すけみつ、天文7年(1538年)? - 慶長17年(1612年)?)は津軽氏の家臣。沼田面松斎。
津軽為信の軍師として活躍したと言われるが、明確な功績についてはあまりわかっていない。
生まれは上野国利根郡沼田と言われている。沼田には1570年頃まで沼田氏が勢力を張っていたが、顕泰の代に、顕泰は末の庶子(景義)を跡継ぎにしようとして、沼田家中にお家騒動が起きる。このとき、顕泰は一族を連れて陸奥の会津に逃亡したという。一般的な通説では祐光は、この顕泰の子(三男)ではないかと言われている。
また、祐光は一時期京都にいて細川藤孝の家臣として仕えていたとも言われている。足利氏(細川氏?)に使える沼田氏という系統も確認できることから(この京の沼田氏は、若狭にあった陰陽道の土御門家の所領にほど近い城を支配していた。城主沼田光兼(統兼)の子が祐光、とも言われている。)、前述の上州出身説との関連なども含めて、今後の研究に委ねられる。
いずれにせよ現時点での資料では、出身地等の津軽氏仕官以前の経歴および津軽氏に仕えてからの詳しい実績等は不詳とせざるを得ない。陰陽道・易学・天文学に通じていたと伝えられ、伝えられる話にも易学や天文を駆使した話が見受けられる(弘前城築城時の城地選定の際、土地の吉凶を占う、など) 。