津田梅子
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津田梅子(つだ うめこ、元治元年12月8日(1864年12月31日) - 1929年(昭和4年)8月16日)は、明治の教育者。日本の女子教育の先駆者と評価される。父は旧幕臣、東京府士族の津田仙で次女。母は津田初子で、下総佐倉藩の家臣小島氏の出身の仙は、幕臣であった津田家の婿養子となっている。初名は「むめ」で、1902年に漢字表記に改めて「梅子」とした。
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[編集] 略歴
江戸牛込町南御徒町に生まれる。幕臣であった父の仙は、1868年に明治維新が成立すると官職を辞し、1869年に築地のホテル館へ勤めると、津田家は一家で向島へ移る。仙は西洋野菜の栽培なども手がけ、幼少時の梅子は手習いや踊などを学び、父の農園の手伝いもしている。1871年、仙は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となり、津田家は麻布へ移る。開拓使次官の黒田清隆は女子教育にも関心を持っていた人物で、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応募し、1871年(明治4年)には、明治政府が条約改正交渉、欧米諸国視察などを目的に派遣する岩倉使節団に随行して渡米。5人のうち最年少の8歳であった。11月に横浜を出港し、サンフランシスコを経て同年12月にワシントンへ到着。
アメリカではジョージタウンで日本弁務官書記のチャールズ・ランメン家に預けられる。5月には森有礼の世話で、少女留学生はワシントン市内コネティカットに住まわされるが、10月には2名が帰国し、梅子は再びランメン家に預けられ、十数年を過ごすことになる。梅子は英語、ピアノなどを学びはじめ、市内のコレジエト・インスティチュートへ通う。日本へ宛てる手紙も英文で書かれるようになる。この頃にはキリスト教への信仰も芽生え、ランメン夫妻には信仰を薦められていないが、1873年7月には特定の宗派に属さないフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受ける。1878年にはコレジエト校を卒業し、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学。ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ。また、ランメン夫妻に連れ添われて休暇には各地を旅行している。1881年には開拓使から帰国命令が出るが、在学途中であった山川捨松と梅子は延長を申請し、1882年7月に卒業。11月には日本へ帰国する。
梅子らは帰国したものの、封建制度が色濃く残る日本においては女子留学生の活躍できる職業分野にも乏しく、山川捨松と永井繁子はそれぞれ軍人へ嫁した。また、長い留学生活で日本語能力は通訳が必要なほど退化しており、日本的風習にも不慣れであった。1883年には、外務卿井上馨の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文と知り合い、華族子女を対象にした教育を行う私塾「桃夭女塾」を開設していた下田歌子を紹介される。このころ父・津田仙との確執もあったことから、梅子は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在、歌子からは日本語を学び、「桃夭女塾」へ英語教師として通う。1885年には伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった。1886年には職制変更で嘱託となる。
梅子は華族女学校で3年余り教えているが、上流階級的気風には馴染めなかったと言われ、この頃には何度か薦められていた縁談も断っている。1888年には、留学時代の友人アリス・メイベル・ベーコンが来日し、彼女に薦められて再度の留学を決意。父の仙の知人で、日本の商業教育に携わっていたホイットニーの仲介で留学希望を伝えて学費免除の承諾を得て、校長の西村茂樹から2年間の留学を許可される。1889年7月に再び渡米。
当時は進化論においてネオ・ラマルキズムが反響を呼んでおり、梅子はフィラデルフィアのブリンマー・カレッジ(Bryn Mawr College)で生物学を専攻する。3年間の過程を切り上げて終了させ、留学2年目には蛙の発生に関する論文を執筆。使命であった教授法に関する研究は州立のオズウィゴー師範学校で行う。梅子に留学を進めたアリス・ベーコンは日本習俗に関心を持ち、日本女性に関する研究をしていた。ベーコンがアメリカへ帰国し、研究を出版(『日本の女性』)する際には手助けをしている。これは梅子が日本の女性教育に関心を持つきっかけになったとも言われており、留学を一年延長すると、梅子は日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行う。
大学からはアメリカへ留まり学究を続けることを薦められるが、1892年8月に帰国。再び女子華族院に勤める。梅子は教師生活を続けるが、自宅で女学生を預かるなど積極的援助を行い、1894年には明治女学院でも講師を務め、キリスト教教育、婦人運動にも関心を持っていた。成瀬仁蔵の女子大学創設運動や、1899年に高等女学校令、私立学校令がそれぞれ公布されて法整備が整い、女子教育への機運が高まると、1900年に官職を辞職。父の仙やアリス・ベーコン、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、7月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立願を東京府知事に提出。認可を受けると東京麹町区に開校し、塾長となる。
華族平民の別のない女子教育を志向して、一般女子の教育を始める。それまでの行儀作法の延長の女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となる。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模にとどめられ、梅子やアリス・ベーコンらの友人ははじめ無報酬で奉仕していたものの、学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など経営は厳しかったと言われる。1903年には専門学校令が公布され、塾の基盤が整うと申請して塾を社団法人とする。
梅子は塾の創業期に健康を損ない、塾経営の基礎が整うと1919年1月に塾長を辞任。鎌倉の別荘で長期の闘病後、64歳で死去。
1915年、日本の女子教育に対する貢献をたたえて、勲六等宝冠章を受けた。
[編集] 参考文献
- 『津田梅子伝』:津田塾同窓会(昭和31年)
- 『津田英学塾四十年史』:津田英学塾(昭和16)
- 『津田梅子遺文』:津田塾大学所蔵
- 『津田梅子』:大庭みな子
- 『The Japanese in America』:チャールズ・ランメン
[編集] 伝説
1980年代の大学情報誌「キャンパス」によると、女性の晩婚化がそれほどでもない時代には、「津田梅子さんの墓参りをすると結婚できない」「墓参りをすると卒業から結婚まで10年かかる」という伝説が女子学生の間で広まっていた。