水野修孝
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水野修孝(みずの しゅうこう、1934年2月22日 - )は徳島県生まれの作曲家。
[編集] 経歴と作品概論
1934年、徳島に生まれる。父親は中学の教諭を経て、戦後は千葉大学で化学を教えた人物。 2歳の時に千葉県へ越し、以後現在に至るまで千葉に在住。
戦争末期に疎開を行った際、二回に分けて荷物を運んだが、二回目の荷物を運び出す前に空襲の被害を受ける。しかし、一回目に運んだ荷物の中にピアノが含まれていたことが、その後の彼の人生を決定づけた。
中学時代、学問、芸術、スポーツなどあらゆることに熱中するが、それらの中で音楽に最も惹かれるようになる。千葉大学文学部に入学後、法律政治科に転科。学内のオーケストラ(千葉大学管弦楽団)でヴィオラを弾くが、やがて才能が周囲に認められ、大学3年より指揮をするようになる(以後、1995年まで指揮を続けた)。またその頃、東京交響楽団の定期演奏会で聴いた、ヘンツェの交響曲第2番に大きな感銘を受け、作曲家を志す。大学4年の時、音楽を志す決意を完全に固め、半年で受験準備をし東京藝術大学楽理科に入学。柴田南雄、長谷川良夫、小泉文夫に師事し、1961年に卒業。特に柴田と小泉の二人からは多大な影響を受けた。
作曲家としての正式デビューは、1961年の「金管群のための3つの次元」。初期は、譜面の中に演奏者が自主的に演奏部分や演奏法を選択できる部分を盛り込み、演奏者の自発性を引き出すことを試みる。この頃の代表作としては、「声のオートノミー」(1964)、「オーケストラ1966」(1966/73改訂)などがある。当時の作品のサウンドは、師匠の柴田南雄に逆に影響を与えたとされる。
また藝大在学中に、小杉武久と出会い、学内でヴァイオリンとチェロで即興演奏の試みを始める。やがてそのメンバーに、塩見允枝子、刀根康尚、戸島美喜夫、柘植元一、武田明倫が加わり、卒業後に「グループ音楽」という音楽集団を結成。コンサートホールや戸外などあらゆる場所で、ジョン・ケージばりの集団音楽パフォーマンスを繰り広げた。またその当時の藝大にはオノ・ヨーコも出入りしており、ステージパフォーマンスでのコラボレーションの経験がある。
やがて1960年代後半、アメリカより渡辺貞夫が帰国し、ジャズ理論講座を開催することになると、彼はこれを皆出席で受講し、ジャズ理論を完全にマスターする。そしてジャズ作品を次々に発表し始め、1973年に発表されたビックバンドによる「ジャズ・オーケストラ'73」や、75年に発表された「ジャズ・オーケストラ'75」は、日野皓正、渡辺香津美、中村誠一、村上秀一らジャズ界のトッププレーヤーたちの手により演奏され、迫力あるドライブ感と大音響で聴衆を圧倒した。特に「'73」は、現代音楽の手法を採り入れた当時としては非常に破天荒な作風であり、ジャズ、現代音楽の両分野で多大な反響を呼んだ。
1974年、アメリカのロックフェラー財団から、武満徹、一柳慧、高橋悠治らとともに招かれ、一年間アメリカへ留学。現地のミュージシャンと交流し、「純血文化はやがて淘汰され、これからの世界を席捲していくのは混血文化である」との確信を得るに至る。
その確信は、クラシック、現代音楽、ジャズなど様々なジャンルの技法を一つの作品の中に混在させ、統合をはかる「ポスト・モダン」的作風へと結びつき、帰国後の70年代後半から次々と発表されたオーケストラ作品、オペラ作品に色濃くその特徴が反映され、現在にまで至る。またこの留学以降、自らが日本人であることを一層強く意識するようになり、お囃子や和太鼓などの、日本の伝統音楽の素材や楽器が高い頻度で作品に登場するようになる。
「ポスト・モダン」的作風による最も巨大な成果は、1961年より構想が開始され、26年後の1987年に完成した、演奏時間全3時間からなる「交響的変容」である。全4部で構成されており、彼がそれまでの様々な作品で試みたクラシック、現代音楽、ジャズ、ロックなどの技法が、まさしく縦横無尽に駆使されている。第1部から第3部までは、通常のオーケストラのコンサートで初演、再演がなされたが、第4部「合唱とオーケストラの変容」については、この部分のみで演奏時間2時間、演奏者数700人を要する大作であったため、作曲者としても作品を完成させたものの、上演する機会はないものと諦めていたという。
しかし、第4部を完成させた頃はバブル経済の最盛期であった。1989年、地元千葉の幕張メッセの杮落としで「第3部」が上演され、居合わせた聴衆に好評を呼んだことがきっかけとなり、第4部上演の機運が関係者の間で盛り上がった。地元自治体のバックアップの上に、複数の大手企業より多額の協賛金が寄せられることとなり、ついに1992年9月20日、幕張メッセで全4部の一挙上演が実現の運びとなった(演奏は岩城宏之指揮東京交響楽団、東京混声合唱団、栗友会合唱団等)。
「交響的変容」の完成後の作品には、叙情性が増し、歌うような旋律が頻繁に出現するようになる。「交響詩『夏』」(1989)、「交響曲第3番『佐倉』」(1991)、オペラ「ミナモ」(1991)などにその特徴が顕著に現れている。また、90年代よりミュージカルの創作を開始し、作曲者が在住する八千代市の子供たちのために、作詞家岡本おさみと組んで書いた「泣きたくなったら笑うんだ」(1993)、指揮者金井誠が主宰する「ミュージカルシアターヒラソル」のための、空矢庵(金井のペンネーム)の台本による「イノセント・ムーン」(1999)などが誕生する。ミュージカルから生まれた親しみやすいメロディーは、「交響曲第4番」(2003)や、千葉室内合奏団のために書いた弦楽アンサンブルのための作品など、彼の「純音楽系」の作品にも反映されている。
教育者としては、1960年代後半から1999年まで、千葉大学教育学部で教鞭を執りながら、民俗音楽、流行歌を研究。東京藝術大学講師も歴任。現在、千葉大学名誉教授。千葉大学での門下生の有名人としては、歌手、リポーターを経て、民主党衆議院議員(千葉12区)を務めた青木愛がいる(彼女が歌手デビューを果たしたのは、水野が歌唱力を認めたことがきっかけである)。千葉大学退官後は、静岡文化芸術大学教授、武蔵野美術大学講師を務めた。
また、1955年から95年までの41年にわたり千葉大学管弦楽団を指揮して、ベートーヴェン、ブラームス、マーラーなどを演奏。1968年に演奏したベートーヴェンの「第9」は、この曲の千葉県初演であった。
[編集] 代表作
- 交響的変容(1961~87、全4部で演奏に3時間、演奏家700人が必要)
-第1部「テュッティの変容」(1978、フルオーケストラ) -第2部「メロディーとハーモニーの変容」(1979、フルオーケストラ) -第3部「ビートリズムの変容」(1983、フルオーケストラ+和太鼓・ティンパニーの各ソリスト) -第4部「合唱とオーケストラの変容」(1987、150人のオーケストラ+550人の合唱+ソプラノ独唱)
- 交響詩「夏」(1989)
- 交響曲第1番(1990)
- 交響曲第2番「佐倉」(1991/99改訂)
- 交響曲第3番(1997)
- 交響曲第4番(2003)
- オーケストラ1966(1966/73改訂)
- マリンバ協奏曲(1980)
ジャズ作品
- ジャズ・オーケストラ73(1973)
- ジャズ・オーケストラ75(1975)
- コンクレートのための交響曲(1960)
- 電子音楽 怒りの日(1972)
- 天守物語(1977)
- 美女と野獣(1989/2003改訂)
- ミナモ(1991、後に「愛の妖精」と改題)
- 泣きたくなったら笑うんだ(1993)
- イノセント・ムーン(1999)
声楽曲
- 声のオートノミー(1964)