桓帝 (漢)
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桓帝(かんてい 132年 - 167年、在位146年-167年)は後漢王朝の第11代皇帝。姓を劉、諱を志。蠡吾(れいご)侯劉翼の子。三代章帝の曾孫、八代順帝の族弟(劉一族中の年少の“いとこ”に当たる)。
[編集] 梁冀誅殺
族子(おい)の質帝が梁冀によって毒殺された後、権勢保持のために梁冀とその妹の梁太后によって反対派を押しのけて擁立された。もちろん質帝の時代と変わらず梁冀の専権時代が続き、太后とは別の妹を桓帝の皇后とし、一族から七封侯・三皇后・六貴人(妃の位)・二大将軍を出し、栄華の極みを得た。梁冀は専横に反対するものを粛清し、名臣として名高い李固を殺して反対者を弾圧した。
これに反発した桓帝は宦官の単超らの力を借りて梁冀邸を包囲してこれを誅殺した。一族も同じように殺され、この時に誅殺された数は300に上り、そのために朝廷に人が少なくなったと言う。
梁冀を殺して念願を果たした桓帝は功労者の単超を2万戸の侯に封じ、その他の宦官たちに対しても大きな恩賞を与えた。しかし梁冀の専横を払った後、今度は宦官たちの専横時代がやってくることになる。宦官は、本来は生殖能力を絶った男性であるが、養子をとることにより与えられた封土と蓄えた財物を相続する者も現れる等、世襲貴族を志向する者も現れるに至った。なお、この時期に権勢を誇った宦官に、魏の祖となった曹操の祖父曹騰が挙げられる。
[編集] 党錮の禁
宦官が政権を握ったことに不満を抱いたのが、外戚・豪族勢力である。宦官は儒教的考えからは汚らわしい、人間ではないと考えられており、不満を抱いた豪族たちは宦官を濁流、自らを清流(あるいは清流派)と呼んで宦官勢力を非難し始めた。
これに対して宦官勢力は豪族たちを党人、徒党を組んで政治を乱す輩と呼んで弾圧を行った。切欠となったのが159年に河南尹・李膺が宦官の犯罪を摘発したところ、逆に投獄されたと言う事件である。李膺は後に許されて司隷校尉となり、宦官を恐れずに摘発したことで名声が高くなった。その後、同じように名声があった陳蕃と共に幹部官僚予備軍たる太学(大学)の学生たちの後押しを受けて宦官たちを指弾するが、167年に宦官たちはこれを弾圧した。これが党錮の禁である。
逮捕された人数は200人に及び、釈放後も免職と為り、以後は仕官が出来ないことになった。この処置は豪族たちの怒りを更に大きいものにし、李膺・陳蕃の名声はますます高くなった。桓帝死後に陳蕃による宦官誅滅作戦が行われ、これに失敗した。怒った宦官たちは再び党錮の禁を起こし、ますます宦官と豪族の対立が深まることになる。
宦官の専横が後の黄巾の乱の要因となり、豪族と宦官の対立が黄巾後の戦乱の時代を生むことになった。その意味で後漢の滅亡の要因は桓帝の時代に作られたと言える。
死去の一年前の166年に大秦国王(ローマ帝国)安敦(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使節がやってきた。