林裕章
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林 裕章(はやし ひろあき、1942年9月3日 - 2005年1月3日)は兵庫県出身の実業家。芸能プロモーター。
[編集] プロフィール
父の猿丸吉左衛門は元芦屋市長・兵庫県議会議員。大阪星光学院中学校・高等学校、同志社大学商学部卒業。繊維会社勤務を経て1971年吉本興業入社。取締役制作部長、専務取締役を経て、1999年社長に就任。2002年日本経済団体連合会に加入。2004年会長となる。吉本興業の元会長・林正之助の娘婿。
取締役時代の1980年、東京に個人名義でマンションを借りて東京事務所を開設。東京進出の陣頭指揮をとり、漫才ブームの基礎を築いた。本格的に東京進出、東京中心に物事を考えるようになったのは、東京に進出した上岡龍太郎の「東京と大阪じゃギャラの額が3桁違う」と言う一言だった。それが後の東京・大阪の二本社制のきっかけにもなっている。その後、テレビ・ラジオ制作部長などを経て、1999年に当時の中邨秀雄社長が会長となった後を受け、社長に就任。
在任中は東京、大阪の二本社制をしき、本業のお笑いを重視。東京・新宿に常設劇場「ルミネtheよしもと」を開設。また、「M-1グランプリ」の創設に寄与し、さらには海外進出にも意欲的で吉本新喜劇の海外公演などを手がけた。
2002年に吉本興業が日本経済団体連合会に加入。芸能事務所が財界の総本山に入ることは初のことである。
2003年に体調を崩した後は入退院を繰り返すようになり、2004年、会長職に就く。2005年1月3日、肺小細胞癌により死去。
[編集] エピソード
- 浜田雅功は自番組「HAMASHO」(現・「浜ちゃんと」)の一コーナー「芸能人生活向上株式会社」で、同社の社長・林裕章を演じている。
- 横山やすしの事を嫌っており、アンチやすし派の一人でもある。横山やすしが吉本を解雇された時、やすしへの解雇通知書を発行したのも林本人である。やすしの告別式で、記者からの問いに「人の話を聞かずに酒を飲み続けたからこうなった。」と述べていた。
- 晩年は、頑張っていても出世ロードが見えなかった福岡吉本の行く末を気にしていた。誰か一組、福岡発の吉本芸人が東京でブレイクすれば後続も付いてくると考えた林は、福岡吉本でトップクラスの人気があった鶴屋華丸・亀屋大吉(後の博多華丸・大吉)に対し「まず君らから東京進出や」と声をかけたものの、その直後に体調を崩し、会長職に退いた。その後、福岡吉本は所長交代による体制の変化などで華丸・大吉の東京進出は立ち消えとなり、林もその後逝去。福岡からの東京進出は随分遅れ、華丸・大吉が東京に進出したのは林の逝去後であった。
- 先代の林正之助の社長室には、やすしきよしを助さん・角さんにして自分が水戸黄門の格好をした写真を飾っていたが、裕章はダウンタウンを両脇に、「ゴッドファーザー」のコスプレをした写真を飾っていたという。
- 台湾へ出張の際に得意先に歓迎され、カラオケを歌う羽目になった(林は歌が苦手らしい)。そして、「花 ~すべての人の心に花を~」を「ナナナ~ナ~ナ~♪」とハミングだけで通した。
- 学生時代、アメフトで鍛えた強靱な筋肉とアントニオ猪木の様な大きな体といかりや長介の様な威圧感と菅原文太の様な顔つきは多くの芸人を恐れさせ、数々のエピソードを残した。中でも、ギャラ値上げを主張した若かりし頃の島田紳助に対し、おもむろに上着を脱いで「とりあえずかかって来んかい!俺に勝ったら上げたる!」と述べた事は有名。この一件が逆に紳助に対する熱意を高め、2004年10月に事件を起こしていた紳助のことを最期まで気にかけていたが、翌年の1月中田カウスに見取られ逝去。最後の一言が「紳助を頼むぞ」であった。