東海大学安楽死事件
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東海大学安楽死事件(とうかいだいがくあんらくしじけん)とは、病院に入院していた末期がん症状の患者に塩化カリウムを投与して、患者を死に至らしめたとして担当の内科医であった大学助手が殺人罪に問われた刑事事件。日本において裁判で医師による安楽死の正当性が問われた現在までで唯一の事件である。
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[編集] 事件の概要
患者は多発性骨髄腫のため東海大学医学部付属病院に入院していた。病名は家族にのみ告知されていた。平成3年4月13日、昏睡状態が続く患者について、家族は治療の中止を求め、助手はこれに応じた。長男はなおも「いびきを聞くのが辛い」と申し出たため、鎮痛剤、抗精神病薬を通常の2倍の投与量で注射した。しかしなおも苦しそうな状態は止まらず、長男が「今日中に家につれて帰りたい」と求められた。そこで助手は殺意を持って塩化カリウム20mlを注射し、患者は同日、急性カリウム中毒で死亡した。
翌5月にこのことが発覚し、助手は塩化カリウムを注射したことを問われ、殺人罪により起訴された。なお、患者自身の死を望む意思表示がなかったことから、罪名は刑法第202条の嘱託殺人罪ではなく、第199条の殺人罪とされた。
裁判において、被告人側は公訴権の乱用として、公訴棄却もしくは無罪の決定・判決を求めた。
なお、先例として名古屋安楽死事件がある。
[編集] 名古屋安楽死事件
本件に先立つ安楽死事件のリーディング・ケースが「名古屋安楽死事件」である。これは被告人が患者である父親に毒薬入りの牛乳を飲ませて安楽死させた事案であるが、名古屋高等裁判所昭和37年12月22日判決が安楽死の要件(違法性阻却事由)として、
- 不治の病に冒され死期が目前に迫っていること
- 苦痛が見るに忍びない程度に甚だしいこと
- 専ら死苦の緩和の目的でなされたこと
- 病者の意識がなお明瞭であつて意思を表明できる場合には、本人の真摯な嘱託又は承諾のあること
- 原則として医師の手によるべきだが医師により得ないと首肯するに足る特別の事情の認められること
- 方法が倫理的にも妥当なものであること
の6要件を示した。この基準は後の判決でも援用されることが多い。なお判決は5と6の要件を満たさない(違法性は阻却されない)として、被告人に嘱託殺人罪の成立を認めた。
なお、事案は日ごろ安楽死について意思表明していなかった患者が、病床の苦痛によって「殺してくれ」「早く楽にしてくれ」と叫んでいたというものであり、平時死を望んでいた事情がないからといって真摯な意思表明でないとはいえないとしている。ゆえに、4の要件が意思表明を確認できない場合(危篤時など)にどう位置づけるべきかは、以後の裁判例に委ねられた。
[編集] 判決
横浜地方裁判所平成7年3月28日判決は、被告人を有罪(懲役2年執行猶予2年)とした(確定)。
判決では、医師による安楽死の4要件として、
- 患者に絶えがたい激しい肉体的苦痛が存在していること
- 患者について死が避けられず、かつ、死期が迫っていること
- 積極的安楽死の場合には、患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替的手段がないこと
- 間接的安楽死の場合には、患者の推定的意思表示でも足りるが、積極的安楽死の場合には、それが行われる時点での、生命の短縮を承諾する患者の明示の意思があること
を挙げた。
そして、本件では患者が昏睡状態で意思表示ができず、痛みも感じていなかったことから1、4を満たさないとした。ただし、患者の家族の強い要望があったことなどから、情状酌量により刑の減軽がなされ、執行猶予が付された。
[編集] 論点・問題点
本判決は名古屋安楽死事件の6要件よりもより緩やかに違法性阻却事由を構成し、上記の4要件では患者の自己決定権を重視したことを特徴とする。そして、緊急避難の法理と患者の自己決定権をベースとして、積極的安楽死について限定的ながらも認めたことに意義がある。刑法の学説も積極的安楽死を認める説が有力であるが、生命の処分を認めるべきではないとする説もある。
医師による安楽死であれば違法性が阻却されるとする論拠は不明確との批判もある。
[編集] 参考文献
- 塚本泰司「安楽死と尊厳死」宇津木伸・塚本泰司編『現代医療のスペクトル フォーラム医事法学Ⅰ』329頁(尚学社、2001年)
- 福田雅章「安楽死(東海大学安楽死事件)」唄孝一・宇津木伸・平林勝政編『医療過誤判例百選 第2版』130頁(有斐閣、1996年)