村上義清
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村上 義清(むらかみ よしきよ、文亀元年3月11日(1501年3月29日) - 元亀4年1月1日(1573年2月3日))は戦国時代の武将。信濃国の国人。
勇猛で知られた信濃埴科郡葛尾城主。武田信玄を二度までも討ち破るなど、その武勇をもって佐久・埴科・小県・水内・高井郡など北信濃の各地を支配下に治めて村上氏の最盛期を築き上げており、同時期には北信濃の戦国大名であった。実質的に信州村上氏の最後の当主。 別名:左衛門尉、信濃守、左馬頭等。正室は信濃守護小笠原長棟の娘。家紋は「丸に上文字」。信仰していた宗教は真言宗である。
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[編集] 略歴
1501年3月11日、葛尾城に生まれる。幼名は「武王丸」。父は左衛門督顕国(頼平、頼衝)、母は室町幕府管領の斯波義良の娘。家臣の出浦周防守國則の妻を乳母とする。1517年に、父より葛尾城を譲られ、1520年に病没した父の後を受けて当主となる。
当初の宿敵は同じ北信濃の名族で、小県郡の領主であった海野氏であり、義清は、武田信虎・諏訪頼重と同盟を結び、海野棟綱を追放し海野氏を没落させることに成功している。しかし、今度は信濃東部へ進出した甲斐の武田晴信(信玄)と敵対し、天正17年(1548年)には、小県南部へ侵攻した武田勢を上田原の戦いで撃退する。この戦いで義清は武田方の初鹿野伝右衛門を討ち取っている。また、村上方の安中一藤太の一槍で倒れた諏訪郡代・板垣信方は上条織部に討ち取られた。この他に武田方は、甘利虎泰、才間河内守などの部将を失うことになった。この勝利に勢いを得た義清であったが、小笠原氏・仁科氏・藤沢氏らと結んで諏訪に侵攻するも、これは晴信によって退けられた。
1550年、晴信が信濃砥石城を攻略する。義清が本領を留守にしていた時のことであった。晴信による砥石城攻めの報を聞きつけた義清は反転、今は退却を開始した武田勢に追撃戦を挑み、大勝をおさめる(砥石崩れ)。この戦いで武田方は横田備中守高松、渡辺雲州を始め、720名の戦死者を出す。村上方の死者は193名。晴信はこれ以降、家臣の真田幸隆による村上方武将の切り崩し調略を強化する。
その結果、1551年には幸隆の謀略により砥石城を奪われた。砥石城の足軽大将矢沢薩摩守(幸隆の弟)が幸隆に内通していたためであった。 これにより義清の影響力は一気に低下し、1552年の常田の戦いで勝利を収めるも、家臣団の動揺は抑え難く、1553年武田氏に通じていた大須賀久兵衛尉が謀反、また室賀、屋代、石川など村上方の諸将が武田氏に降伏したため葛尾城は大混乱に陥った。このため義清は4月9日葛尾城を一時脱出し再度体勢を整え、22日には奪還に成功している。武田氏は深志城に後退し5月11日には甲府に引き上げた。
しかし晴信は7月25日に大軍を率いて甲府を出発、8月に義清は窮地に追い詰められた。抗戦能力の無くなった義清は上杉謙信を頼って越後に落ち延びていった。義清が信濃を追われ、甲斐と越後の間に緩衝地帯が無くなったことは川中島の戦いの一因ともなった。
その後、義清は根知城主となり、嫡男の村上国清とともに上杉家臣となる。国清は一時山浦姓を名乗り、上杉家第2位の地位を与えられる。1561年の第4次川中島の戦いにおいて、義清は信玄と名前を変えた晴信と再びまみえ、信玄の弟・武田信繁を討ち取る。
1573年に越後根知城にて73才で病死、日滝寺に葬られたという。その墓所については魚沼郡赤沢の説もある。坂城町田町の出浦家墓所中には後年(天正4年、慶長4年、没後百年など数説あり)分骨されたという墓所が残る。法名は日滝殿紅雲正清公大禅門。
1582年に武田勝頼が自害し、甲斐武田氏は滅亡。義清の娘婿で養子でもある国清が同年8月5日に海津城代に任命され、村上氏旧領に復帰した。
[編集] 信濃村上宗家系譜
義清--国清--幸清--義豊--義眞--義教--泰国--義處--義輔--義暁--義信--彦四郎
[編集] 村上家臣家
井上、高梨、須田、島津、海野、望月、保科、屋代、吾妻、室賀、山田、小野沢、出浦、清野、村松、雨宮、石川、坂田、諏訪、横田、莪野、福沢、若林、村山、米持、窪、綿内
[編集] 参考文献
- 志村平治『村上義清伝 北信濃の武将』(新人物往来社、1991年) ISBN 4404018517
- 笹本正治 監修・坂城町 編集『村上義清と信濃村上氏 坂城町信濃村上氏フォーラム記念誌』(信毎書籍出版センター、2006年) ISBN 488411048X