杉浦茂
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杉浦茂(すぎうら しげる 1908年4月3日 - 2000年4月23日)は、東京都出身の漫画家。
[編集] 略歴
東京市本郷区(現在の東京都文京区)湯島にて、医師の3男として誕生。1915年、湯島小学校入学。1921年、旧制郁文館中学(現在の郁文館高等学校)に入学。彼が画家志望であることについて常に否定的だった父親が1924年に死去したため、1926年、私立の洋画学校に入学。洋画を学ぶ。
1930年、第11回帝展洋画部門に入選。1932年、田河水泡に入門。長谷川町子の兄弟子となる。1932年、「どうも近ごろ物騒でいけねぇ」を東京朝日新聞に載せて漫画家デビュー。以後、『少女倶楽部』『少年倶楽部』『新少年』などに児童漫画を執筆。1937年、田河水泡の肝煎りで昭和漫画会を結成。
1945年に赤紙(召集令状)を受けたが、まもなく敗戦。1946年に漫画活動を再開。『冒険ベンちゃん』(1948年 ~ 1950年)や『アップルジャム君』(1950年 ~ 1954年)など少年向けの冒険漫画を描く。特に『猿飛佐助』(1954年 ~ 1955年)や『少年地雷也』(1956年 ~ 1957年)で一世を風靡する。
丸顔の漫画然としたキャラクターと劇画調のキャラクター、駄洒落や掛詞を駆使した台詞回しとダリを意識した超現実的でサイケデリックな画風と、相反する要素が渾然となった作品でカルト的な人気を得ている。赤塚不二夫や筒井康隆や横田順彌など、杉浦漫画から多大な影響を受けた創作者は数多い。特に細野晴臣は「小学生の頃、ぼくの日常の動作や会話はすべて杉浦茂スタイルであった」「ぼくは音楽の手塚治虫や杉浦茂になりたいのかもしれない」と述べている。
手塚治虫からも「先生」と呼ばれる漫画界の長老的存在でありながら、常に遊び心を忘れることなく、また読者からのファンレターには必ずオリジナルのイラスト入りの返事を出すなど、律儀な人柄の持ち主でもあった。亡くなる間際まで漫画を描き続けた逸話はもはや伝説である。