大友能直
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大友能直(おおとも よしなお、承安2年1月3日(1172年1月29日) - 貞応2年11月27日(1223年12月20日))は、鎌倉時代初期の武将。
近藤氏の出で、大友氏の初代当主。父は近藤能成(近藤太能成)、母は利根局。幼名は一法師丸。正式な名のりは藤原能直(ふじわら・の・よしなお)。
相模国愛甲郡古庄郷司という所領も少なく無名に等しい近藤(古庄)能成の子として生まれ、当初は古庄能直と名のり、次いで父と同じ近藤の苗字から近藤能直と名乗る。母の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地の相模国足柄上郡大友郷を継いだ際に、苗字を大友に改め大友能直と名乗る。父の能成が早世したためか、母の姉婿の中原親能の猶子となり、中原能直とも名のり、苗字を二転三転させている。
能直の父の近藤能成の弟が武藤頼平とされ、頼平の猶子が少弐氏の祖の武藤資頼。
母・利根局は元源頼朝の妾であり、また養父の中原親能が頼朝の側近だったことから頼朝の寵愛を受け、後の大友氏の興隆の因となる。もし、頼朝の個人的な寵愛がなければ、大友能直も大友氏も無名の存在として歴史の波に埋もれていただろう。また母が頼朝の妾だったことから能直は頼朝の御落胤であるという話が伝えられたが、落胤説は現在では島津忠久の場合と同じく偽源氏の作り話として否定されている。