本島等
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本島 等(もとしま ひとし、1922年2月20日 - )は、日本の政治家。1979年から1995年の4期にわたり、長崎市の市長を務めた。
[編集] 略歴
現在の長崎県新上五島町に生まれる。隠れキリシタンの末裔で母が未婚ということもあって、戦時中はスパイ疑惑を掛けられたこともあった。京都大学に入学するも、戦時の混乱で卒業は27歳の時であった。教諭を経て、県議会議員を20年勤め、長崎市長となった。
昭和天皇が重病で余命が長くないと知らされ、国中に自粛のムードが漂っていた1988年12月7日、市長3期目の在任中だった本島は、市議会で共産党の議員の天皇の戦争責任に関する意見を求める質問に答え、海外の記事や自分の従軍経験から考えて、「天皇には戦争責任があると思う」と答弁した。その直後に、自民党県連などが発言の撤回を要求したが、本島は自分の良心を裏切ることはできないとして、これを拒否した。これに対し自民党県連は県連顧問から解任し、多数の保守系組織が市長を非難した。また、多数の右翼団体が長崎市に押しかけ、80台以上の街宣車で市中を走り回って市長の「天誅」を叫んだ(菊タブー)。
1990年1月18日、警察が警備を緩和したときに、右翼団体『正気塾』の構成員が本島を背後から銃撃したが、奇跡的に命を取り留めた。
1991年の選挙では革新勢力の支持を得て当選したが、1995年の選挙では多選批判などを受け、自民党の推薦を受けた伊藤一長に敗れ、政界から引退した。
2002年、第1回韓日平和交流功績賞、並びに、ドイツの功労勲章一等功労十字章が贈られた。
近年では、「侵略戦争をした日本は原爆を落とされて当然であり、日本に原爆を批判する資格は無い」などと発言し、反発を招いている[1]、[2]。
[編集] 関連書籍
- 長崎市長への七三〇〇通の手紙(径書房)ISBN 4770500718 増補版 ISBN 4770500777
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