本多忠辰
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本多 忠辰(ほんだ ただとき、正徳元年(1711年) - 寛延3年11月24日(1750年12月22日))は、播磨山崎藩の第3代藩主。父は初代藩主・本多忠英。母は小池三平の娘。正室は松平乗堅の娘。官位は従五位下。肥後守。肥前守。
幼名は八十郎。1731年、先代藩主で兄の本多忠方が若死にしたため、その後を継いだ。藩政においては兄の代から続く享保の飢饉による農村荒廃による救済費、さらには正室が将軍である徳川吉宗の側用人を務める乗堅の娘である上、兄の本多忠良までもが老中になったことから、その関係で出費が著しく増大して、藩財政が破綻寸前となった。このため、御用商人から莫大な献金を取り立てている。
1750年11月24日、40歳で死去し、後を子の本多忠堯が継いだ。法号:諦原院殿前肥州宰吏融誉円厳利道大居士。墓所:東京都江東区三好の霊光院。