本多忠良
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本多 忠良(ほんだ ただなが、元禄3年(1690年) - 宝暦元年6月1日(1751年6月23日))は、江戸時代中期の大名、政治家。越後村上藩、三河刈谷藩、下総古河藩主。幕府では側用人、老中。最終官位は従四位下・侍従・中務大輔。
本多家の分家筋にあたる播磨山崎藩主・本多忠英の長男として誕生。宝永7年(1710年)、15万石の本家本多家当主・本多忠孝が7歳で無嗣のまま死去し、本来であれば断絶となるところ、とくに幕命により、分家筋の忠良に継がせることとなった。
ただし藩主死去後の急養子の形であるため忠良相続後まもなく、10万石減封のうえ、越後村上から三河刈谷に転封となっている。
幕府では、6代将軍家宣より側用人に抜擢され(1710年)、翌年には侍従にあげられ席次は老中に次ぐと定められた。7代将軍家継が死去し、紀州から徳川吉宗が8代将軍に就任(1716年)すると側用人を解かれ帝鑑間席に戻ったが、忠良は本多平八郎の嫡流であるとして、5万石ながら逆に10万石の格式を許された。18年後には再び国政の表舞台に復帰し、西丸、本丸老中を勤めた。
本多家は子の本多忠敞が継いだ。