本多忠堯
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本多 忠堯(ほんだ ただとう、元文2年(1737年) - 宝暦11年2月25日(1761年3月31日))は、播磨山崎藩の第4代藩主。父は第3代藩主・本多忠辰。母は松平乗堅の娘。正室は相良長在の娘。官位は従五位下。大和守。
幼名は権次郎。1750年、父の死去により後を継いだ。先々代藩主からの災難続きで藩財政は破綻寸前となっており、窮民は増加していたため、商人から銀90貫を借り入れて藩政改革を行なおうとしたが、筆頭家老が改革反対派から攻撃されて失脚するなどしたため、短期間で失敗に終わった。1761年2月25日、25歳の若さで死去し、後を妹婿の本多忠可が継いだ。法号:広善院殿前和州宰吏定誉宗厳了演大居士。墓所:東京都江東区三好の雲光院。