本多忠孝
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本多 忠孝(ほんだ ただたか、元禄11年(1698年) - 宝永6年9月13日(1709年10月15日))は、江戸時代の大名。播磨国姫路藩主、越後国村上藩主。姫路藩主・本多忠国の三男。官位はなし。本多忠孝は、徳川四天王の一人である本多忠勝の直系の家。
宝永元年(1704年)に父親の本多忠国が死んだことにより家督相続。しかし、播磨国姫路藩は西国の要となる場所であることから、幼少を理由に、忠孝は越後国村上藩に移封された。
村上城に一度も入城しないまま、宝永6年(1709年)に13歳で死去。無嗣であったため、本来であれば断絶であったが、本多忠勝以来の名門の家系であったため、幕命により一族の本多忠良が家督を相続した。しかし、禄高は15万石から5万石に減封され、さらに、三河国刈谷藩に移封された。