曹休
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曹休(そうきゅう、生年不詳-228年)は、魏の皇族武将。字は文烈。祖父は後漢の呉郡太守・尚書令を務めた曹鼎。父の名は不詳。曹肇・曹纂の父。 孫に曹興(曹肇の子)、曾孫に曹攄(曹興の子)・曹識(曹纂の孫)、玄孫には曹毗(曹識の子)らがいる。 曹洪は彼の亡き父と血の繋がりが濃い従兄弟同士であったという。
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[編集] 略要
[編集] 若き日
曹操の族子(但し、直接血は繋がってはいない)であると言われている。190年に曹操が挙兵した時、たまたま父を早く失った曹休は、母を伴って呉郡から譙県にやって来た。曹操は「この子はわが家の千里の駒なり」と褒めたといわれる。その後、曹丕同様に曹操から可愛がられて育てられた。そして、従父の曹純の死後、その後を継いで虎豹騎の総司令官となる。そして曹操の晩年における主要な合戦の大半に従軍した。 特に218年の漢中攻防戦では、従父の曹洪に従い活躍したといわれる。その戦功で領軍将軍に任じられた。
また、裴松之の注である『魏書・曹休伝』によると、ある時に曹休は壁に描かれてある呉郡太守であった祖父(曹鼎)の肖像画を眺めて、腰を下ろし亡き祖父に拝礼して、思わず流涙したという。 (裴注;太守下有休於太守舎五字、涕泣下有同座者皆嘉歎焉七字『原文』)
[編集] 大司馬として
曹丕が皇帝として即位すると、征東大将軍に累進した。224年に、曹丕は呉の孫権を呉王に任命。その後、呉は蜀と同盟を結ぶ。曹丕はその夏に自ら親征し、曹休・曹真と合わせて三路より呉を攻めた。孫権は呂範を総大将として徐盛・全琮らを率い、対魏重要拠点の須濡で魏軍を迎え撃たせた。両軍ともに決着がつかず、間もなく魏と呉が和議を結ぶことになった。するとその直後に、たまたま呂範の船団が暴風雨に襲われた。その有様を見た曹休は、曹丕の許しを得て呂範軍に襲いかかり、大勝利を治めた。だが呂範は、和睦の最中に魏が勝手に襲撃したことに激怒し、その雪辱を報いるために徐盛・全琮らを従えて、曹休を初めとする魏軍を撃退してしまった。さすがの曹丕も参り、さらに疫病もあって、呉と和睦して引き揚げることになった。この時、曹休は揚州牧として呉の備えを任されている。226年に曹丕が逝去すると、太子の曹叡に仕えて長平侯に封じられた。同年に魏に侵入した呉の将軍の審悳を破り、これを捕虜にして処刑し、大司馬に累進した。228年に先年の報復を果すために偽りの帰順をした呉将の周魴の誘いを信じて、大軍を率いて呉討伐に赴いた。駆け付けたばかりの賈逵がこれを疑い、曹休に直ちに退却するように進言した。だが、曹休は以前から賈逵と犬猿の仲だったため、これを聞かず、かえって賈逵を後陣に回した。やはり賈逵の予想した通り、周魴の罠に嵌った曹休の軍勢は陸遜の軍勢に挟み撃ちに遭い大敗し、曹休自身も呉軍に追い詰められたが、賈逵が援軍として駆けつけたため、命は助かった。曹休はこの時、賈逵に謝罪しないどころか、賈逵の援軍が遅過ぎたと逆恨みしたと言われている。やがて曹休は、敗戦のショックによって発生した悪性の腫瘍が原因で間もなく洛陽で死去した。壮侯の諡号を送贈されたという。
[編集] 演義での曹休
演義では、218年に金禕らの謀反を王必らの知らせで、彼自身が反乱軍を鎮圧したことになっている。実際は曹丕から全権を委ねた彼の族弟の曹真が、王必と厳匡らに指示して鎮圧したのが真相らしい。何故なら曹休は曹洪に従軍して、漢中に遠征をしていたから。そして、222年の真夏に曹丕の呉遠征に従軍して、陸遜・呂範に大敗したことになっている。正史と同様に周魴の罠に嵌り、再び陸遜・徐盛の軍勢に敗れ、賈逵の加勢で洛陽に戻り、間もなく腫瘍に罹って病没している。