全ソウ
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全琮(ぜんそう、196年または198年 - 247年または249年)は、三国時代の呉の武将。 字は子璜。全緒・全寄・全懌・全呉の父、全輝・全禕・全儀・全静の祖父、全端・全翩・全緝の伯父。
全柔の子で、楊州呉郡銭塘の人。孫権に仕え、武勇に優れていることから重用され、奮威校尉から偏将軍へと昇進した。219年には関羽討伐の計略を上表している。228年、魏の曹休と戦って活躍した戦功と、その直後の山越討伐による戦功により、衛将軍に任命されたうえ、孫権の娘・魯班を与えられ、その娘婿になっている。彼女との間に全呉を儲けている。
全琮は孫和と孫覇による孫権の後継者争い(二宮の変)に巻き込まれている。全琮は次男の全寄が孫覇派であったことから、孫覇の立太子を支持したものと思われる。246年に右大司馬(全琮伝では左軍司馬・左軍師)に昇進した。その後孫覇の自害と連座して全寄は自殺させられたが、全琮はその前に死去していた。享年は52歳。なお、全琮の没年は247年春正月(呉主伝)、249年春正月(全琮伝)、249年冬(『建康実録』)とその記述が揺れている。
晩年の全琮は、顧雍の孫である顧譚を讒言で交州に流罪にしたり、血生臭い後継者争いで実の息子を失ってまで己の栄達を極めたため、『孫和伝』では「論ずる必要も無い悪人」とまで蔑まれている。しかし、若い頃の全琮は温厚で慎み深く、私財を投げ打って貧窮した人々を助けていたという一面もある。