徐盛
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徐盛(じょせい、177年?-228年?)は、後漢末期から三国時代にかけての呉の武将。字は文嚮。子は徐楷。
[編集] 勇猛果敢な男
徐州瑯耶郡の人。孫権が広く人材を求めていたとき、招かれて家臣となった。柴桑で黄祖・黄射父子の侵攻を食い止めた功績により、校尉となる。その後も赤壁の戦い、合肥の戦い、濡須の戦いなど、呉軍における主要な戦いのほとんどに参加して武功を挙げた。
徐盛の勇猛果敢振りを示す逸話がある。魏軍と戦っていたとき、徐盛の部隊は敵中に孤立してしまった。味方の多くが敵に取り囲まれたことを知って絶望を感じ、全員が降伏しようと言い出した。それに対して徐盛は自ら単騎で敵中に突っ込んだ。これを見て絶望にとらわれていた部下たちも震え上がり、全将兵が敵に突撃をかけて、魏軍が敗走したと言われている。
[編集] 曹丕を撃退した『偽城』
徐盛は三国志演義においては武勇肌の強い猛将として描かれている。確かに正史においても勇猛果敢なうえ、同僚の蒋欽と部下のいざこざから対立したり、周泰の部下に配属されることを嫌って反発するなどという一面もあった。しかし、武勇だけでなく知略も兼ね備えた名将だったのだ。
224年、魏の曹丕が大軍を率いて長江から南下してきた。孫権はこれに対し、陸遜を総大将にして迎撃しようとしたが、陸遜は荊州の守備があって駆けつけられない。そこで、徐盛が自ら志願して総大将となり、魏軍を迎え撃つこととなった。徐盛は兵力で大きく劣る呉軍がまともに戦っても勝算は乏しいとふんでいたため、長江沿岸数百里にわたって偽の城壁を建造した。曹丕はこれを見て驚き、呉軍が充分に迎撃体制を整えていると誤解し、撤退した。徐盛は撤退する魏軍を追撃し、葦の生い茂った箇所を魏の大船団が通過しようとしたところを火攻めにして魏の大軍20万を粉砕した。三国志演義ではこの戦いで副将として孫韶と付けられるが、仲違いをして孫韶を処刑しようとした。だが孫権が割って入り孫韶は処刑を免れる。それに奮起し孫韶は徐盛の偽城の計が成功し魏軍が撤退を行っている最中に奇襲をし魏軍に大打撃を与えることに成功した。 この時の魏軍の被害は赤壁の戦いのものに匹敵する。
その後、228年の曹休との戦いにも参加して活躍したが、直後に病を発して死去したと言われている。
[編集] 三国志演義の徐盛
三国志演義では、諸葛亮を殺す役目を演じたり、陸遜の才能を疑って、その部下になることを嫌ったりするなどの一面が描かれている。しかし、演義においても曹丕を欺いた偽城のことが描かれており、このことが呉における多くの武将の中でも、特に徐盛の存在を際立たせていると言えるであろう。
なお、221年に孫権が魏に臣従したとき、呉に訪れた魏の使者・邢貞に対して、「呉が魏に降伏することほど恥なことは無い」と言ったという記述がある。それほど、孫権に忠実な武将だったのであろう。