支援戦闘機
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支援戦闘機(しえんせんとうき)は、航空自衛隊の機体種別で、自衛隊用語の一つ。地上部隊(陸上自衛隊)や艦隊(海上自衛隊)を空から「支援」することから名づけられた。海外では戦闘攻撃機あるいは戦闘爆撃機に値する。
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[編集] 歴史
日本における「支援戦闘機」誕生のきっかけは、F-104Jの整備で余剰となったF-86Fをどのように扱うかに端を発する。航空自衛隊の戦闘機は、1965年(昭和40年)にはF-86F、F-86D、F-104J/DJあわせて19個飛行隊が存在し、F-86Dは早期に退役したものの、米軍供与機180機にライセンス生産300機の計480機を取得し、多すぎるからと供与機から45機を返還したF-86Fは、未だ10個飛行隊を占めていた。このうち、供与機と初期の国産機は退役するが、それ以外の機体は耐用年数に達しておらず、主力戦闘機として230機の大量調達を行うF-104配備後の処遇が問題となった。
そこで、本来は航空格闘用に製作されたF-86Fに、対地攻撃能力を付与して攻撃機とする事としたが、専守防衛を掲げる日本で、「攻撃」という積極的な名は避けられ、「支援戦闘機」という名称に定められた。「支援戦闘機」部隊としての「指定」は北部航空方面隊、中部航空方面隊、西部航空方面隊に各1隊ずつ3個飛行隊に行われたが、当時から「ただでさえ足りない戦闘機を任務ごとに分けるな」「支援戦闘機であっても要撃戦闘飛行隊を補佐し、対戦闘機戦闘や要撃任務を遂行せよ」などという声は根強かった事もあり、これらのF-86F飛行隊は支援戦闘飛行隊として再編制されたわけではなく、要撃戦闘飛行隊に「支援戦闘飛行隊としての任務を付与」する体裁をとっており、あくまで本業は要撃戦闘であり、支援戦闘機部隊としての指定を受けていても、対領空侵犯措置任務は継続して行っていた。このため、「戦闘機」の能力も名称も維持されているわけである。
1976年(昭和51年)10月に閣議了承された、平時における日本の防衛力を定めた「防衛計画の大綱」(防衛大綱)において、「要撃戦闘飛行隊10個・所要機数約250機、支援戦闘機隊3個・所要機数約100機」と決定されたが、上記の経過が根拠となっている。航空自衛隊にしてもオペレーションリサーチの明白な結果によって支援戦闘飛行隊3個という数字を出したわけではないが、F-1やF-2において「攻撃機」だけでなく「戦闘機」としての能力が要求される所以も、この支援戦闘機隊の成立の経緯と深く関わっている。この防衛大綱によって、支援戦闘機の必要数は3個飛行隊100機と決定された。
これを元に、F-86Fの後継機として国内開発された三菱F-1が配備されるが、調達数は次々に削減され、3個飛行隊は維持されたものの、77機の配備に留められた。次いで、F-1後継機として三菱F-2A/Bの開発にかかるが、様々な経過によって配備までに時間がかかり、F-1の耐用年数を迎えたため、F-2配備までの暫定措置として、F-15J/DJの整備で余剰となった要撃戦闘機F-4EJの一部に対地攻撃能力を付与(回復)し、1個飛行隊を転換した。他の2個飛行隊はF-2A/Bによって転換され、次いでF-4EJも転換される。また、T-2練習機が配備されていた1個練習飛行隊がF-2Bに転換されたことにより、支援戦闘飛行隊は実質4個飛行隊となっている。
21世紀に入り、防衛庁では将来的に、飛行隊の数を維持しつつも、要撃と支援の区別を廃止し、全機種をマルチロールファイター(多用途戦闘機)とする方針を発表している。F-2もマルチロール化のための空戦能力向上が図られており、F-4EJ後継機についても多用途戦闘機が選定される予定で、将来のF-15J/DJ転換によって、「支援戦闘機」の種別は名実共に無くなる事と思われる。