挙母藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
挙母藩(ころもはん)は、三河国の北西部、現在の愛知県豊田市中心部を治めた2万石の譜代大名の小藩。藩庁は挙母城(別名七州城)。挙母藩の歴史は領主により大きく四つに分かれる。
目次 |
[編集] 藩史
[編集] 三宅家時代(1604年 - 1619年)
慶長九年、武蔵国から三宅康貞が祖先ゆかりの地である三河国加茂郡衣に入封し、衣藩1万石がはじまった。三宅氏はこれまでの衣城を廃し、現在の豊田市元城町付近に陣屋を構える。これは矢作川の水運と岡崎藩、尾張国、信濃国への交通の要所をおさえる意味もあり、陣屋を中心に7ヶ町を形成した。
1619年二代目康信は2000石を加増の上、伊勢国亀山藩に領地替えされ、1636年三代目康盛が再び1万2000石で衣城主となる。さらに1664年四代目康勝の代に三河国田原藩へ再び領地替えになり、以後、衣の地を治めることはなかった。
[編集] 幕府領時代(1664年 - 1681年)
寛文四年三宅氏転封後、衣の地は幕府領となり三河代官鳥山氏の支配下に。鳥山氏は三宅氏の築いた陣屋を廃し、そこの町の郷倉を建て、さらに堀を埋め立てそこを田地とした。他に道路の拡張や養蚕の奨励、灌漑などの事業を行った。
[編集] 本多家時代(1681年 - 1749年)
天和元年、陸奥国石川より本多忠利が衣に1万石で再び立藩した。本多忠利は徳川家康の家臣、本多忠勝のひ孫にあたり、幕府でも寺社奉行を勤めている。また近隣の伊保藩、足助藩の藩主も忠利の兄弟が治めており西三河における本多氏一族の一体的支配の動きの中の立藩とも言える。本多氏は「衣」を「挙母」と表記することを定め城下町の整備に努める。本多氏は忠利、忠次、忠央の三代にわたり支配する。
[編集] 内藤家時代(1749年 - 1871年)
寛延二年、上野国安中藩より内藤政苗が挙母へ領地替えとなる。以後、明治維新までの約120年間に渡り挙母の地を支配することになる。内藤氏は本多氏から受け継いだ挙母1万石の他、遠江国と美作国に1万石あり、合わせて2万石の大名であった。入封後、幕府より4千両与えられ、それまでの陣屋から挙母城築城の計画が進められた。しかし築城の計画は一揆や洪水、政争などの要因で遅々と進まなかった。
結局、二代藩主の学文は1779年に挙母城の移転を決意。挙母城より西方の樹木台に新しい城の築城を進めることになる。そして1785年に築城工事を終え、江戸から戻った学文は新城の見分をしている。それが現在、七州城と呼ばれる城にあたる。また学文によって藩校崇化館も創立される。以後、挙母の城下町は旧城を中心とした下町と新城を中心とした樹木の2つの地域で発展し、明治維新を迎える。
[編集] 幕末の挙母藩
天保七年(1836年)9月、現在の松平地区で加茂一揆が発生。飢饉に苦しむ農民が年貢の減免や市場価格の抑制を求めて起こした一大農民一揆で、1万人以上の農民が参加する大騒動に発展した。五代藩主政優は鉄砲隊を組織して矢作川の堤防で農民を撃退し、一揆を鎮圧した。なおこの一揆は東海地方有数の規模となり、翌年の大塩平八郎の乱にも影響を与えることとなった。またこの加茂一揆には「鴨の騒立(かものさわだち)」という別名がある。
嘉永四年(1851年)五代藩主政優死去。政文が六代藩主となる。安政 元年(1854年)挙母地方大地震。安政五年六代藩主政文死去。文成がわずか四歳で第七代藩主となる。翌年、英式銃陣法が取り入れられ、習練が行われる。慶応三年(1867年)挙母地方でもええじゃないか運動が起きる。
慶応4年2月藩主不在のままに西軍に対して恭順。3月には藩主文成が帰藩。その年4月東海道軍人馬兵食賄方として、駿府警衛のため一小隊を派遣。六月に再度警衛に当った。
明治元年(1868年)七月藩主文成、京都御所へ参内し、勤王の意を表する。明治2年文成挙母藩知事に。明治3年挙母藩が廃止され挙母県に。 幕末時士族は100戸。卒族は200戸を数えた。挙母藩最後の藩主内藤文成は、維新後子爵。明治34年1901年まで生きた。ちなみに幕末期の4代藩主の政成、5代藩主の政優は養子で、彦根藩主井伊直中の五男、八男にあたる。あの井伊直弼は十四男で、彼らの弟にあたる。
[編集] 挙母の志士、安藤早太郎と新選組
挙母藩の幕末を語るにおいて忘れてはならない人物がいる。それは安藤早太郎(あんどうはやたろう)である。嘉永3年(1850年)に脱藩し、知恩院の一心寺に入寺。その後文久3年5月までにあの壬生浪士組に入隊。25日に幕府に提出した上書に連名した。そう後の新選組である。6月の新選組結成時には副長助勤として名を連ねる。
八月十八日の政変にも出動し、あの池田屋事変では近藤勇に従い池田屋を襲撃。裏庭の防御にあたった。池田屋事変の際に負傷し、元治元年7月22日に死去。他に死亡した奥沢栄助、新田革左衛門とともに別段金20両を賜った。墓は壬生寺、聞名寺にある。持っていた刀は南海太郎朝臣朝尊二尺五寸。文政9年9月の銘。池田屋事変の際には、物打ちあたりを接損。
入隊の年の12月、芹沢派だった隊士野口健司の切腹にさいして介錯を行い、その足で八木家の餅つきを手伝っていたというエピソードがある。2004年のNHK大河ドラマ「新選組!」では河西祐樹がその配役に。
[編集] 歴代藩主
[編集] 三宅家 譜代1万石
-この間1619年から1636年の間は伊勢亀山に転封-
- 康盛(やすもり)従五位下・大膳亮 帝鑑間 伊勢亀山より入封
- 康勝(やすかつ)従五位下・能登守/土佐守 三河田原へ転封
[編集] 天領・鳥山氏 三河代官
- 精俊
- 精明
- 精元
- 精永
[編集] 本多家 譜代1万石
[編集] 内藤家 譜代2万石
- 政苗(まさみつ)従五位下・丹波守・帝鑑間 上野安中より入封
- 学文(さとぶみ)従五位下・山城守・帝鑑間
- 政峻(まさみち)従五位下・山城守・帝鑑間
- 政成(まさなり)従五位下・山城守・帝鑑間
- 政優(まさひろ)従五位下・丹波守・帝鑑間
- 政文(まさぶみ)従五位下・山城守・帝鑑間
- 文成(ふみしげ)従五位下・丹波守・帝鑑間