大塩平八郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大塩平八郎(おおしお へいはちろう、寛政5年1月22日(1793年3月4日) - 天保8年3月27日(1837年5月1日))は、江戸時代後期の儒学者で、大坂町奉行所与力を勤める。通称は平八郎、諱は後素、字は子起、号は中斎。 大坂天満の生まれだとされているが、阿波国の生まれだとする説も存在する。
学問は陽明学を学び、知行合一を信じて、自宅で洗心洞という私塾を経営し、頼山陽などとも交際を持った。
天保の大飢饉の際、幕府への機嫌取りのために大阪から江戸へ送られる米(廻米)と、豪商による米価つり上げを狙った米の買い占めによって大阪の民衆が飢餓にあえいでいることに心を痛め、当時の東町奉行跡部良弼に対して、蔵米(旗本および御家人の給料として幕府が保管する米)を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせることを要請した。しかしまったく聞き入れられなかったため、豪商鴻池善右衛門に対して、「貧困に苦しむものたちに米を買い与えるため、自分と門人の禄米を担保に一万両を貸してほしい」と持ちかけたが、善右衛門は跡部に相談し、跡部が「断れ」と命令したためこれも実現しなかった。その後は蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討つ以外に根本的解決は望めないと考え、門人に砲術を中心とする軍事訓練を行ったのち、門人、民衆と共に蜂起(大塩平八郎の乱)する。しかし、門人の密告(奉行所が送り込んだスパイという説もある。)によって奉行所の知るところとなったこともあって、すぐ鎮圧された。逃亡生活中、四ツ橋のあたりで刀を捨て、靱のとある商家の蔵に隠れていたが、数ヶ月ほどの後、所在が発覚し、養子の格之助と共に火薬を用いて自決した。享年45。
「友人になりたいと思った相手に対して、なんらかの邪心を抱いているならば、親しくするべきではない」との言葉から、極めて厳格な人間性が伺われる。
著書に『洗心洞箚記』など。
- 現在大塩の終焉地とされる現在の大阪市西区靱本町1丁目18番12号(天理教飾大分教会の敷地内。)に、追悼碑がある。
- 大塩の隠れていた場所がばれた理由のうちで有名なものの一つとして、いつも二人分の食事が日に一度必ず余分にあるのを不審に思った商家の女中が奉行所に密告したという説がある。