忽那諸島
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忽那諸島(くつなしょとう)とは、瀬戸内海の安芸灘と伊予灘との間に位置する島嶼群。最も面積が大きい中島本島を主島とする。7つの有人島と22の無人島からなる。
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[編集] 概況
- 総称して、忽那七島と呼ばれる。
- 単に忽那諸島と呼ぶ場合、古くはニ神島の属島である由利島を除き、柱島(山口県)を含める場合もある。また、松山市の釣島(つるしま)、さらには興居島(ごごしま)を含めることもある。
- 離島振興法上の指定地域名としては、「忽那諸島」に釣島も含む。
- 名称は、平安時代から戦国時代において、忽那氏(くつな)の本拠地であったことに由来する。
- 「忽那」は難読名の一つ。なお、漢字変換の際に「こつな」で変換すると出てくるが、8世紀ころの文書には「骨奈島」とあり、ルーツを示しているともいえる。
[編集] 位置
[編集] 自然
- 山口と愛媛のほぼ中央に位置し、周辺は潮流が渦巻き、クダコ水道は特に好漁場として知られる。
- 瀬戸内海の他の島同様、平地は少ない。
- 気候は温暖寡雨。
- 山地は頂上近くまで果樹園として利用されている。
- ほぼ全域が瀬戸内海国立公園に含まれる。
[編集] 歴史
- 古来、九州と近畿とを結ぶ海上航路上に位置するため、海上の往来が盛んであった。
- 平安時代から戦国時代において、忽那(くつな)氏の根拠地であった。
- 鎌倉時代から南北朝にかけて、忽那氏は水軍を組織し、瀬戸内海一帯で活躍した。その様子は、忽那家文書に詳しい。それによると、北条氏、後醍醐天皇との関係もうかがえる。
- 関が原の戦いによる論功行賞で、伊予国は藤堂高虎と加藤嘉明がそれぞれ20万石で分け合うことになり、忽那諸島においては加藤領と藤堂領が入り乱れる結果となり、それが松山藩と大洲藩の分割統治に受け継がれることとなった。松山藩領地が諸島の南北に、大洲藩領は東西に位置していた。中島本島では、一つの島ながら大洲藩領と松山藩領にわかれていた。結果的に、それが明治以降も小村が分立し、島民の交流を妨げたという一面もある。なお、中島本島は、大洲領は忽那島と呼び、松山藩領では風早島と読んでいた。風早は、今日の北条市(2005年に松山市に編入合併)付近一帯の地名で、風早郡という郡名もあった(のちに消滅)。
- また、海上の参勤交代路にも接することから、風待ち港としても栄えた。
- 島しょ部のため、各島がそれぞれの自治を行っていたが、幾度かの合併を経て、昭和38年には温泉郡中島町となる。
- 昭和40年代 柑橘類の栽培が盛んになり、みかんの島として知られる。
- 2005年1月 松山市への編入合併のため、松山市の一部となる。
[編集] 社会
- 世帯数2500世帯(旧中島町)
- 人口6300人(同)
[編集] 文化
- 島嶼部であるため、かつては島間の住民の往来も少なく、各島で独自の文化(祭礼など)があったが、今日ではその色彩は薄れつつある。
[編集] その他
- ニ神島等は映画『船を降りたら彼女の島』のロケ地ともなった。