徳川家重
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徳川 家重(とくがわ いえしげ、正徳元年12月21日(1712年1月28日) - 宝暦11年6月12日(1761年7月13日))は、江戸幕府の第九代将軍(在職1745年 - 1760年)。
八代将軍吉宗の長男。母は側室大久保氏お須磨の方で、幼名は長福丸(ながとみまる)。父吉宗に正室との間の子がいなかったため世子とされ、1725年元服して家重を名乗ると、従二位大納言に叙せられた。
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[編集] 生涯
家重は生来虚弱の上、言語が不明瞭であったため、幼少から大奥に籠もりがちで酒色にふけって健康を害した。このため、文武に長けた次弟の田安宗武と比べて将軍の継嗣として不適格と見られることも多く、父・吉宗や幕閣をさんざんに悩ましたが、結局、長子相続ということで、延享2年11月2日(1745年11月24日)に将軍職を譲られた。しかし宝暦元年(1751年)までは、吉宗が大御所として実権を握り続けた。家重への将軍職継承はその実子・家治が非常に聡明であった事も背景にあった。
家重の時代は吉宗の推進した享保の改革の遺産があり、綱吉が創設した勘定吟味役を充実させ、現在の会計検査院に近い制度を確立する等、幾つかの独自の経済政策を行った。1755年の凶作をきっかけに一揆が続発し、社会不安が増していった。また、健康を害した後の家重はますます言語不明瞭が進み、側近の大岡忠光のみが聞き分けることが出来たため忠光を重用し、側用人制度を復活させる。一般に悪徳政治家として評価されることの多い田沼意次が大名に取り立てられたのも家重の時代である。実際には家重の時代には田沼意次は大した力を持たず、大岡忠光も特に権勢に奢って失政・暴政を行うことは無かったとされる。宝暦11年(1760年)、大岡忠光が死ぬと、家重は5月13日(6月25日)に長男・家治に将軍職を譲って大御所と称し、翌年没した。
法名:惇信院殿仙蓮社高譽泰雲大居士。 墓所:東京都港区の三縁山広度院増上寺にある。
[編集] 官歴
- 11月15日:将軍後継者となる
- 享保10年(1725年)
- 8月7日:右近衛大将を兼任
- 延享2年(1745年)
- 宝暦10年(1760年)
- 宝暦11年(1761年)
[編集] 人物
家重は幕府中興の祖とされる父の吉宗と比較され、暗君とみられることが多い。しかし、家重時代に有力な老中も見当たらず、また、引退した吉宗は、家斉のような大御所政治を行っていないことから、将軍親政を行える力量の持ち主と見るむきもある。
家重は将棋を好み、将棋に関する著作がある。
また、失禁の症状が頻繁だったため「小便公方」とあだ名されていた。
戦後、増上寺の改修に伴い、同寺境内の徳川将軍家墓所の発掘・移転が行われた。この時、歴代将軍やその家族の遺骨の調査も行われ、次のような事実が判明した。
- 家重は同寺に埋葬された歴代将軍の中で最も整った顔立ちをしており、家重がさまざまな行事で諸大名に謁見した時、非常に気高く見えたという『徳川実紀』における内容の記述を裏付けている。にもかかわらず、肖像画ではひょっとこのような顔で描かれている。
- 家重の歯には約45度の角度での磨耗が見られ、これは少なくとも、乳歯から永久歯へと生え変わって以降、四六時中歯ぎしりを行っていたということになろう。家重は言語不明瞭であったと記録されているが、それはこの癖から来るものであったと思われる。
- 家重の血液型はA型であった。
一般の知名度は低かったが、1995年のNHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』における中村梅雀の怪演で一躍その名を知られる事になった。また、『志村けんのバカ殿様』のバカ殿のモデルとも言われている。
[編集] 系譜
[編集] 参考文献
- 鈴木尚『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』(東京大学出版会)
- 鈴木尚『増上寺徳川将軍家墓とその遺品・遺体』(東京大学出版会)
- 松本清張『通訳』(傑作時代小説 短編)
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