後漢 (五代)
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後漢(こうかん 946年 - 950年)は、中国五代十国時代の王朝で、五代の一つである。建国者は劉知遠で、劉姓であることから国号を漢とした。都は開封。
1世紀に光武帝が立てた漢(東漢)もしばしば後漢と呼ばれるが、光武帝の後漢はごかん、こちらの五代の後漢はこうかんと訓み、区別される。
後晋が遼に滅ぼされた時、後晋に仕える節度使で晋陽に駐屯していた劉知遠が、遼軍の引き上げた後の開封に入り、後晋王朝に代わって皇帝に即位して後漢王朝を開いた。
遼軍が劉知遠と戦わなかった理由は、遼が開封の統治に失敗しており契丹人の兵たちが北帰を望んでいたことと、そもそも遼の南進は元々後晋に対する懲罰と略奪だけが目的であったのでわざわざ劉知遠の軍と戦う意味が無かったことによると考えられる。
翌年すぐに劉知遠は死に、次男の劉承祐が後を継ぐ。年若い劉承祐は、自分の権力を高めようと、劉知遠の代からの実力者で地方に駐屯する将軍郭威を排除しようとしたが、郭威の軍が開封に迫る最中の950年に郭允明によって殺された。
郭威は一旦は劉知遠の甥の劉贇(りゅうひん 贇は文武の下に貝)を立てようとするが、部下に押し立てられ自ら帝位に就き後周を開いた。
後周が開かれると、不要となった劉贇は殺害され、その父である劉崇は自身が節度使として駐屯する晋陽で自立し、十国の一つ北漢を立てた。北漢は後周に代わった北宋に滅ぼされるまで続く。