弘道館
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弘道館(こうどうかん)は、江戸時代後期に日本の常陸国水戸藩に作られた藩校である。所在地は茨城県水戸市三の丸。
現在は、茨城県営の都市公園の1つである弘道館公園(こうどうかんこうえん)となっている。国の特別史跡に指定されており、正庁・至善堂・正門は国指定重要文化財となっている。
[編集] 沿革
創立は、1841年(天保12年)8月。第9代水戸藩主の徳川斉昭によって水戸城三の丸内に作られた。建造には腹心の戸田蓬軒が務めた。また、経営にあたる学校奉行には、蓬軒の実弟 安島帯刀が任命された。文武両道を教育方針とし、馬術や剣道やという武道のほかにも、広く諸科学、諸学問が教育・研究された。
学問の教育・研究としては、当時広く行われていた人文科学、社会科学のほかにも、医学や天文学をはじめとする自然科学についても行われていた。また、第2代水戸藩主の徳川光圀が編纂を始めた大日本史の影響を受けた水戸学の舞台ともなった。当時の藩校としては規模が大きく、また水戸藩も財政が潤っていたとはいえなかったことから、当時の水戸藩の教育重視がうかがえるといわれている。しばしば現代の総合大学に例えられるが、学問は一生行うものであるという考え方に基いて特に卒業の概念を設けず、若者も老人も同じ場で学んだといわれている。
明治維新の際、水戸藩では改革派(天狗党)と保守派(諸生党)が激しく争い、弘道館もその舞台となった。1868年には会津戦争で敗走した諸生党が水戸に舞い戻り、弘道館に立てこもる事態となり多くの建物が銃砲撃により焼失した(弘道館戦争)。1872年(明治5年)12月8日に閉鎖され、その後は太政官布告により公園とされた。
弘道館が有していた蔵書の多くは国有とされ、後に設立された旧制官立水戸高等学校が引き継いだが、1945年(昭和20年)8月1日から8月2日未明にかけての水戸空襲により国有化された蔵書は焼失した。そのほかの蔵書については、弘道館の伝統を引き継ぐために関係者によって作られた自彊舎に引き継がれ、その後は、弘道学舎、水戸塾、水戸学院、茨城中学校・茨城高等学校と続いている。現在、約1万冊程度の蔵書が現存し、茨城県立歴史館が委託などで管理を行っている。
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