小笠原忠雄
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小笠原 忠雄(おがさわら ただたか(ただお))は、豊前小倉藩の第2代藩主。
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 正保4年5月20日(1647年6月22日) | |||
死没 | 享保10年6月28日(1725年8月6日) | |||
別名 | 万松丸(幼名)、長真(初名) | |||
戒名 | 静照院殿暁山紹栄 | |||
墓所 | 福岡県北九州市小倉北区の広寿山福聚寺 | |||
官位 | 従五位下、遠江守、 従四位下、侍従、左近将監 |
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藩 | 豊前小倉藩主 | |||
氏族 | 小笠原氏 | |||
父母 | 父:小笠原忠真、母:那須藤(永貞院) | |||
兄弟 | 兄:小笠原忠真、小笠原長安、小笠原長宣、 弟:小笠原真方、小笠原長弘 姉:市松姫、兼姫、鍋姫 妹:千代姫、姫松 |
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妻 | 正室:浅野光晟の娘・久姫(長寿院) 側室:鈴木氏 |
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子 | 小笠原忠基、稲葉清彪、小笠原貞通、 小笠原長新、義姫(藤堂高睦室)、 房姫(松平昌興室)、清姫、福姫(浅野長澄室)、 染姫(牧野康重室)、須免姫(稲葉正知室) |
1647年5月20日、初代藩主・小笠原忠真の三男(または四男)として小倉で生まれる。兄が早世したため、1660年に世子に指名され、1663年に従五位下、遠江守に叙任される。1667年、父が死去したため、後を継いで藩主となった。このとき、従四位下に昇進している。
1673年、長真から忠雄と改名する。藩政においては、1671年に弟の小笠原真方に1万石を分与して支藩である小倉新田藩を立藩させ、減税政策、藩体制の整備・強化、密貿易の取り締まりなどを行なった。しかし延宝年間に飢饉が起こって財政が苦しくなると、重税を課したと言われている。
1696年からは嫡男・忠基と二元政治を行ない始める。晩年には新井白石が行なった正徳の治における貨幣改革の余波を受けての米価低下による藩財政収入の減少、享保の飢饉による被害の大きさによる百姓の逃散なども相次いだ。しかも幕府による手伝い普請による出費増大も財政悪化の一因を成したが、幕府からは譜代大名の鏡として賞賛されたという。
1725年6月28日に死去。享年79。後を嫡男の忠基が継いだ。