浅野光晟
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浅野 光晟(あさの みつあきら、元和3年8月12日(1617年9月11日) - 元禄6年4月23日(1693年5月27日))は、安芸広島藩の第2代藩主。父は初代藩主・浅野長晟(光晟は次男)。母は徳川家康の三女・振姫。正室は前田利常の娘・満姫。官位は従五位下、侍従。従四位下、左少将。紀伊守。安芸守。
1617年8月12日、和歌山で生まれる。幼名は市松。岩松。1627年8月、元服し、さらに家康の外孫であることから松平姓を許されて松平安芸守を名乗った。1632年、父の死去により後を継ぐ。このとき、庶兄の浅野長治に5万石を分与して、支藩である備後三次藩を立藩した。その後は徳川氏との関係を深めると共に、検地や税制改革、西国街道の整備や運輸整備などの藩政改革を実施して、藩政の確立に務めた。特に「広島町中御掟法」などは、後の広島市のもとになった藩法でもある。他にも職制改革を行なっている。
1672年4月18日、子の浅野綱晟に家督を譲って隠居し、1693年4月23日に死去した。享年77。法号:玄徳院仁岳良寛。墓所:広島市の神田山墓地。
- 浅野氏(広島藩2代)藩主
- 1632~1672
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- 先代:
- 浅野長晟
- 次代:
- 浅野綱晟