小山高朝
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小山 高朝(おやま たかとも、永正5年(1508年) - 天正2年(1574年))は結城政朝の三男で、結城政勝の弟。小山秀綱・結城晴朝は息子。
下野国を代表する勇将として知られた。小山政長の養嗣子となって小山氏の家督を継承した。その後は父や兄と協力して、結城氏の敵対勢力と戦う。1547年に父が死ぬと、その隙を突いて宇都宮氏が攻めてきたが、高朝は兄と協力してこれを駆逐した。
1549年に北条氏康と対立し、一時、その圧力に屈しかけたが、1561年に上杉謙信が大軍を率いて氏康を攻めたときは、上杉軍の一員として参じている。しかし、謙信の関東管領就任式で千葉胤富に関東諸将の首位の座を奪われたことに不満を抱いたと言われており、直後に氏康と手を結んだために謙信の怒りを買うこととなり、翌1562年、高朝は謙信に攻められて降伏した。その後は出家して命察と号する。
1574年、北条氏政を攻めようと軍備を整えていた直後に急死した。